石叫■ 「日米戦争回避の鍵を握っていた人たち」B
さて、ここで賀川豊彦氏の戦争回避への貢献について述べてみたい。彼は1919年に日本基督教会の牧師となり、社会運動家、社会事業家、政治家として1947年と1948年にノーベル文学賞、さらには1954年から三年連続でノーベル平和賞の候補に上がっている。シュヴァイツァ―、ガンディーと共に世界の三大聖者と言って賀川豊彦氏を世界の賀川として紹介し評価したのは、アメリカ・バプテスト宣教師のウィリアム・アキスリング氏である。
1941年4月、太平洋戦争半年前のこと。戦争の危険を未然に防ぐためにアメリカへの平和使節として三ヶ月にわたって三百回以上にも及ぶ伝道講演旅行を終えて七月の帰途に着く途上、賀川氏はお別れの牧師たちを前にして話した。「今度の渡米の目的には、一つの大きな使命があったのです。近衛文麿総理大臣からひそかに依頼されて、ルーズヴェルト大統領に日本と中国との間の調停をしてもらうためです」と。それで大統領と会って彼をとうとう説き伏せて、日中間の調停役を引き受けてもらうように取り決めてきたのだったが、6月22には独ソ戦が開始され、続いて7月23日には突然日本軍が仏印に進駐することによって、その計画が水疱に帰したのであった。大統領から、「カガワ、これではどうにもならない。近衛さんとの会談の件は取り消してくれ」と、言ってきたのだった。近衛・ルーズヴェルト会談は失敗に帰した。しかし、大統領をここまで動かしたのは賀川の人格であった。賀川氏は1960年4月に71年の生涯を終ろうとする日の朝、「教会をお恵みください。日本をお救いください。世界の平和をお守りください」と、祈って召天されたのである。彼はこの召天の日、昭和天皇より勲一等瑞宝章を授与されている。キリスト教界において叙勲されるのは極めて稀で、日本人では他に三人(日本最初の孤児院の創立者の石井十次、社会事業に貢献した救世軍の山室軍平、並びに社会事業家の生江孝之)のみであり、しかもいずれも勲三等までである。
世界の賀川の願いはただ一つ、世界の平和であった。主イエスはやがて滅びようとするエルサレム(これから四十年後の予言)を前に、「この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら」(ルカ19:42)と嘆いておられる。神の裁きが近いのに、人々はそれを知らずに日々の生活にあくせくしている。肝心なのは神の救いに預かり、神を知り、その教えに生きることなのだ。それ無くしてお互いの平和はあり得ない。それを叫んだのが賀川だったのである。