石叫■ 「聖書日課」
「一年の計は元旦にあり」と古来から言われている。一年の初めのこの日に何を決断実行するかによって、その年の結果が見えてくるというのである。聖書ではどうかと言うと、例えば、モーセに導かれたイスラエルの民衆がエジプトを出た時が正月となっている(出エジプト十二・2)ように、信仰的決断をした時が原点となる。更には、あなたが神の前に決断した時が人生の計となる。
先週の礼拝後に、この一年間の「聖書の学び」のまとめをした。そこで聖書日課(一日一章、写教、聖書年間通読他)をしてきた方々に、その恵みについて証しをしてもらった。ある姉妹は、「もう日課なくして生きられません。牧師がこんな私にしてしまったのです」と証しされていたが、牧師にとってこれほど嬉しいコメントはない。一方、日曜ごとに棚に置き去りの聖書をフーと吹き、ポンと叩いてホコリを落として礼拝に来る「フーポン信者」ではどうかと思う。
この一年間、オレンジ郡教会はコイノニアという、お互いの交わりにフォーカスを置いてきた。それは私たちが見習うべき初代教会がコイノニアを重視することによって大きく成長したからだった。しかし、そこで忘れていけないのは、その背後にある神との絶えざるコイノニアであり、それが更に重要である。
ある牧師が教会内の問題で悩んでいた。自分は一生懸命に努力しているのに、教会は成長しない。その原因は教会員の、あの人、この人にあると思っていた。そこで、その問題を経験豊富な四国の今治教会の榎本保郎先生に聞いてもらおうと思い、彼に会いにきた。先生だと良い知恵を働かせて、問題の解決をしてくれると思ったからだ。ところが榎本先生は、話しの後でその牧師にこう迫った、「先生、教会がどうのこうのと言う前に、あなたと神様との関係はどうなのですか?」と。それを聞いて牧師はハットした。実は人間という横の関係にばかり心を奪われて、肝心の神さまとの縦の交流がおろそかだったのだ。まもなくしてその教会は立ち上がった。私たちは神との関わりをないがしろにして、相手を指差して、どうのこうのと言っている場合が多いのではなかろうか。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしとつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶ」(ヨハネ15:5)とあるように、お互いの信仰生活にとって肝心なのは、神との関係をまず確認することであり、それは聖書日課という神とのコイノニアから始まる。それが全ての問題解決の鍵であり、豊かな信仰生活の土台である。