石叫■          「どうしても必要なこと」A

世の中、確かに便利になっています。もう、後戻りできない状況で私たちは生活しています。便利さの追求に、人はあまりにも流されてきてしまいました。原発も、その必要の一つとして受け入れられ、建設され、用いられてきました。大勢の人が、その恩恵に与ってきたはずです。しかし、事故を起こした途端、脱原発、反原発です。何と勝手でしょうか。事故の影響を考えれば、もっと安全な発電設備があったほうが良いのは当然です。原発を建設するという選択は、最善とは言えなくても、その時点ではより良い決断であったのかもしれません。

 私たちは、その時々の様々な選択において、本当に良いほうを選んでいるでしょうか。人の選択の誤りを責め、批判するのは簡単です。しかし、選択の失敗を繰り返しているのが、私たちの現実だと思います。失敗に気がついた時、それを批判し、責めることは簡単です。しかし、そこで次の選択を誤らないよう知恵を出し合い、励まし合うということが大切なのではないでしょうか。

 私たちにとって、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(ルカ10:42)と、イエスは語られました。その一つとは、神への信頼だと思います。様々な決断や物の選択において、私たちは失敗だらけです。それによって、世の中の経済は動き、回っているといっても過言ではないと思います。それよって、人様に迷惑を掛けないで済めば良いのですが、知らないうちに迷惑を掛け合っているのも現実です。神に信頼する生活とは、私たちの失敗をも見守り、助け、救ってくださる神への信頼であり、人と人とが信頼し合い、助け合い、励まし合う歩みを、神が願っておられることを覚え続けることではないでしょうか。私たちにとって、どうしても必要な物、それは今回の災害で被災された方々が語っておられたとおり、本当にわずかだと思います。『流浪の教会』を読み、生活の原点を考えさせていただきました。ありがとうございます。

いつの時代もそうだが、うまく行っている時には人の口から文句は出ないけれども感謝も出ず、一旦問題を起こすと、こう言ってたではないか。ああ叫んでいたではないかと、がなり出す。しかし、誰がやっても完全な政策はないし、問題の無い事業などありゃしない。こんな時、ケネディ大統領が「国家が国民に何かをしてくれる事を期待するのではなく、国民が国家に何が出来るかを考えよ」と言った言葉を思い出す。文句を言うのは赤子でも出来るが、自分に何かできることから始めることが大人であり、信仰者の原点なのではあるまいか。