石叫■ 「どうしても必要なこと」@
今回はサウスベイ・コミュニティ教会の中島和夫師のメッセージをご紹介しよう。彼は定期にメールを送って下さるが、その中でも特に光っているものだ。
佐藤彰牧師著『流浪の教会』(この度の福島県の原発災害によって避難をよぎなくされた福島教会の牧師)を読み、涙し、祈らされました。また世間で原発の有無が論じられている中、読み終えて驚いたのは、「脱原発」とか「反原発」といった声が、その著書の中に一行もなかったことです。そして、私たちが生きて行く上で、本当に必要なこと、また本当に必要なものは何かをもう一度考えさせてもらいました。そして、原発の有無を語る前に、私たちにとって本当に必要なこと、必要な物について考える必要があるように思えてなりません。
ある楽器メーカーで働いていた友人が、「我が社で作っている製品はすべて、人が生活する上で絶対に必要な物というわけではない。」と言っていたのを思い出します。そのメーカーでは、オートバイやモーターボートも作っています。考えてみれば、楽器も、オートバイも、モーターボートも、私たちが生活する上で、どうしても必要な物というわけではありません。また、私たちを楽しませてくれているスポーツ界、芸能界、そして大小様々な産業界も私たちにとってどうしても必要かといえば、そうでもなさそうです。しかし、それ等を作り、用いることによって生活している人が大勢いることは間違いありません。
福島第一原子力発電所は海岸線に位置し、津波による被害を直接受け、事故を起こしました。しかし、その原発が内陸で地盤のしっかりとした所に設置されていたとしたら、ここまで原発の有無について論じられなかったように思います。あると便利だと思っていた物が、何かの拍子で、人に不自由を、また悪影響を与えてしまうことがあります。原発事故による放射能汚染は、見えないだけに恐ろしいです。確かに、原発は危険だったのかもしれません。しかし、良かれと決断し、製作し、運用されている物は山ほどありますが、そのすべてが絶対に安全とは限らないのが現実だと思います。何かの拍子で、人に危害を与える物はいくらでもあります。それ等を用いる場所と用いる人の問題でしょう。
先日、ヨセミテ国立公園に行ったとき、夕食を終え、ある方と電話連絡したかったのですが、電波が弱く携帯電話が使えず、ホテルも屋外の公衆電話も故障で使えませんでした。その日のうちに連絡を取りたかったのですが、通じて当たり前の電話が一晩使えないだけで、落ち着かない夜を過ごしました(続く)。