石叫■ 「見える」
ヨハネ9章に「わたしがこの世に来たのは、さばくためである。すなわち、見えない人が見えるためであり、見える人たちが見えないようにするためである」。これは主イエスのみ業によって癒された生まれつき盲人のそばにいたパリサイ人たちに言われた言葉である。その真意を彼らは問う。『それでは私たちも盲人なのでしょうか』。主はそれに応えて、『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが{見える}と言い張るところに罪がある』」と云う会話がそれに続く。実は健常者であるパリサイ人たちは見えず、盲目であった人こそが見るべきものを見ていたという内容である。
祭司、パリサイ人はユダヤ社会のリーダーたちであり、主イエスの多くの奇跡やみ業を見聞きし、最後にはカルバリーの丘での主の死を目撃していた。彼らは一生懸命に聖書を解き明かしたり、断食や献金をしていた。だが、実はそのような行為が彼らを高慢にし、逆にそれをしない人たちを裁いていたのである。行為が基準だと比較の世界になってしまうからだ。しかし、救い主の世界は行為と共に、信仰の世界でもある。それが彼らには見えなかったのである。
一方、盲人は見えていた。後日、この生まれつき盲人を癒して下さった主イエスが彼に出会って、「あなたは人の子(救い主)を信じるか」と尋ねられた時、彼はその場で主を信じたのだった。ここだけを読むと、彼は簡単に主を信じたように思うのだが、実はその行間に宝のようなメッセージが秘められている。
イザヤ書35章には、「神は来て、あなたがたを救われる…その時、目しいの目は開かれ。耳しいの耳はあけられる」(4‐5節)とある。この生まれつきの盲人はその不自由さのゆえに、道端に置かれ、神殿でみ言葉を聞くことも出来なかった。だが、人づてにこのイザヤの約束を知らされ、またイエスという人物がそのようなみ業をしているということを人づてに聞いて、心秘かにイエスこそ神であると信じ、そのお方との出会いを忍耐の限りを尽くして待望していたのではなかろうか。やがてその主にお会いすることによって開眼させられた彼は、イエスが救い主だと確信したのだった。だから村八分となってユダヤ社会から追い出されても、救い主にお会い出来たという喜びが彼を信仰に走らせたのだった。実はそれが「見える」ということであり、信じる者の人生を変える力となったのである。この盲人のように信仰という心の眼でしか主は見えない。その主に今日も聖書を通して絶えず心の目を開いていただこうではないか。