石叫■ 「祖国帰還の夢」
『文藝春秋』の季刊夏号(2008年)に「シルクロードに伝説を作った男たち」という記事がある。そこにある日本人の特異性に触れて感動であった。
ウズべキスタン共和国の首都タシケントに立つ壮麗なオペラハウス・ナボイ劇場の側壁には「1945年から46年にかけて、極東から強制移送された数百名の日本人が、このナボイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」という日本語で書かれたプレートが嵌め込まれている。ここに書かれた日本人とは、第二次世界大戦の敗北で旧ソ連の捕虜となり、旧満州から中央アジアのウズべキスタンまで連行された永田行夫隊長ら457名の日本兵である。永田さんらは収容所に着くと、早速ロシア兵の監視の下で過酷な労働に就く。旧ソ連の三大オペラハウスの一つに数えられたナボイ劇場の建設だった。この日本兵たちが“伝説”として語られるようになったのは、1966年にタシケント大地震が起きてからのことである。直下型の地震で市内の三十万人の家が倒壊したというすさまじいものだったが、その中でほとんど無傷で悠然と建ち続けていたのがナボイ劇場だった。当初、ロシア人やウズべク人は陰日向なく真面目に手際よく仕事をする日本兵の姿を見て「捕虜なのになぜあんなに一生懸命に働くのか」とその勤勉さにあきれたという。だが、仲間同士の協力ぶりや礼儀正しさ、誇りをもった姿勢がいつも変わらないことを知って、いつしか尊敬の念を強めていった。そのうち日本兵に差し入れの食物を持ってくる人が増え、中には日本人を娘のムコにもらえないかという申し込みも二、三人ではすまなくなったらしい。ロシア人を驚かせたのは食事だった。社会主義ロシアでは食事は仕事の出来によって分配するのが原則だったが、隊長はそれをせず、食事の取り扱いは平等にした。仲間割れの起るのが必至だったからだ。さらに監禁状態の中で情報もないために帰国の時期が分からない。そこで“本当に帰れるのか”との不安が募る。隊長は彼らの楽しみを作り出すために芝居、将棋、碁、落語などを催し、彼らの不安解消に大きな役割を果たした。劇場は四七年十月に完成し、事故で亡くなった二人以外はその後、次々と無事に帰国を果した。
この美談は日本人特有の性格も大きかっただろうが、兵全員が日本へ帰るという希望がこの伝説を生み出したのではなかろうか。箴言に「幻がなければ、民は欲しいままにふるまう」(29:18)とある。幻があるということは、どれだけ日々の生活の力となっていることか。果たしてあなたにこの夢幻ありや。