石叫■ 「美しの門にて」
徒行伝三章に「美しの門」で生まれつきの足萎えが癒されるという奇跡が記されている。教会が誕生して以来、初めて具体的に記されている奇跡である。
イスラエルには当時少なくとも百万人近い人々が住んでいたと言われる。その中で実に多くの物乞いがいたと思われる。彼らが生きてゆくためには、大勢の人々が集まるエルサレムの神殿がもっとも利便である。ところが、その日、癒されたのは彼一人だけであった。なぜこの男だけなのかを今回考えたい。
ペテロは彼に先ず「私たちを見なさい」と命じている。彼は足萎えに一体なぜそう言ったのであろう。実はこのヒントが使徒行伝十四章にある。そこでも同じように生まれつきの足萎えであった者が癒されている。そこではパウロが「彼をじっと見て、いやされるほどの信仰があるのを認め」(9節)とある。その足萎えはパウロのメッセージを何度も聞いて主イエスを信じる信仰が芽生えていたのであろう。その求める心をパウロは目ざとく見つけたのである。この三章でも「美しの門」の足萎えにペテロたちは同じものを見ていたに違いない。これが実は癒しをする前に大切なステップである。神のみ業はいい加減なところには決して起こらない。真実に神を求めるところに流れて行くからである。
この足萎えがどれぐらいの年数「美しの門」に置かれていたのかは分からないが、彼は生前の主イエスのメッセージを幾度も聞いたり、次々と病にある者たちを癒してゆく奇跡を何度も見たり聞いたりして、自分も何とか癒されたいという鮮烈な思いがあったのではあるまいか。だからペテロは言う、「イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見知っているこの人を、強くしたのであり…イエスによる信仰が…完全にいやしたのである」(16節)と。その足萎えの信仰をペテロたちも瞬時に見分けて言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(6節)と。これはよほどの確信が無いと言えない言葉である。でも、そう言わせたものがこの生まれつきの足萎えにはあったのだ。
丁度エリコの町で収税人ザアカイだけが主イエスを求めて救いの恵みに与ったように、大勢の物乞いの中でも彼一人だけがそのように主を心から求めていたのである。それに主は答えて下さった。私たちには既に、主を求める者たちに手渡すことの出来る信仰が与えられている。それが「わたしにあるもの」である。それこそがこの世の希望であり、今ほど求められている時はあるまいて。