石叫■            「捧げる喜び」

使徒行伝二章にある初代教会の特徴の一つは「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」(44:45節)とあるように、自分の物を惜しげもなく分け与えて共有していることだ。いくら主イエスが第一とはいえ、日々の必要もあろうし、何かにと経費は出てゆくものだ。一体どうしてそこまで出来たのかと思うのだが、それはやはり主イエスの犠牲的な愛に感動したからではなかろうか。

ソドム・ゴモラが神に裁かれた時(創世記19章)、そこを逃げたロトの妻は滅ぼされつつあるそれらの町を振り返る。神の使いは振り返って見てはならないとあらかじめ命じられたのだったが、彼女はそれに従うことが出来なかった。それによって塩の柱になったとある。だが、お互いロトの妻のように、この世の富、名声、過去の栄光、持ち物などに心を奪われてはいないだろうか。  

今日のキリスト教会の月定献金は2%が平均だと言われる。聖書が命じる10%を捧げる人はほんの一握りしかいない。もっともその献金については旧約聖書の命令であって、新約聖書にその言及はない。ユダヤ人にとって十分の1献金は至極当然のことであり、改めて記す必要がなかったからである。献金額を記さないのは主の十字架による救いのみ業は、金額で表すことが出来ないほど尊いからである。それは自分の心で決める世界であり、喜んで捧げるべきものだからである(1コリント9:7)。救いの喜びに溢れていると、それは恵みとなって、さらに捧げたくなるものであり、値踏み出来ない世界だからである。

「あなたの宝のある所には、心もある」(マタイ6:21)と主イエスは言われるのだが、とかく物に執着する人は物に心が行くし、心から主を愛する者は主に心が向けられるという意味である。心がどこにあるかが肝要なのである。

サンロレンゾ教会の週報に、今回の東北関東大震災に関するツイッターの記事が載っていた。「子供がお菓子を持ってレジに並んでいたけれど、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジの横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。店員さんがその子供の背中に向けて掛けた『有難うございます』という声が震えていました」とあった。この子でさえ他者のことを思い、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒20:35)という聖書のレベルを実践している。、初代教会のような命あふれた信仰生活に限りなく近づくためにも、あなたの心は一体どこにあるのかを問うてみたい。