石叫■         「東北関東大震災」そのC

 3月30日のラフ新報に掲載された記事である。それは毎日新聞からの引用であるが、その記者は震災直後に18時間かけて東京から仙台に行った。そして8日間にわたって宮城・岩手を巡り歩き、数え切れない生と死とを目の当たりにした。ひとまず東京に戻り、命を落とし泥だらけの布団で冷えた地面に横たわった多くの人々を改めて思った。「彼らにも私と同じように家庭や暮らしがあったはずだ。その彼らから、『あなたはどう生きるのですか』と問い掛けられているように思えてならない」と。在米の私たちも、その問い掛けにしっかりと答えるものを持っていなくてはなるまい。

 三浦綾子著「続泥流地帯」のストーリーである。大正15年の十勝岳の火砕流によって田畑は一瞬にして1メートルを越す硫黄臭い泥流で埋まってしまった。そこで弟の耕作はもうここを諦めて他のもっと良い土地に移ろうと言った。一方、兄の拓一は、確かにお前の考えは筋が通っているが、お前は頭で考えている。でも俺は「心で考えたいんだ」。他の良い土に心も動かん。ここはじいちゃん、ばあちゃん、姉ちゃんの命を奪った土地だから、俺は元の土地に戻してみたいんだ。硫黄で燃える困難な土だから、やってみたいんだ。じいちゃんたちが一本一本木を切り倒して、その度ごとに広がってゆく空に歓声を上げたというじゃないか。そんな時の苦労を硫黄臭い土に鍬を入れることで味わってみたいんだ。拓一はそう言った。

使徒行伝2章42節に「使徒たちの教えを守り」とある。主イエスの昇天以後、使徒たちは主の教えを隣人に伝え。それが人々の心を捉え、次々と救われる人たちが起こされたのだった。その教えとは主の生き方そのものであり、耕作のように計算で生きるのではなく、人びとに同化せず、ひたすら主イエスの十字架の赦しと救いとを信じ続ける道である。言わば愚直とも言える生き方である。でもそれこそが信じる者には生きる喜びであり指針であり、それがやがて後世に平和と祝福をもたらす道なのである。これが使徒の教えであり、拓一の言う心で考える世界であると言えよう。

 多くの死者たちを前に、私たちは使徒の教えを忠実に守ることこそが、彼らの叫びに応える生き方であることを心に深く刻みたい。目先のことで云々することは現代のトレンドではあるが、将来をじっくり見据えてコツコツと生きる愚直とも言える生き方こそ、堅実な信仰者の真骨頂である。