石叫■ 「ケルビムが見続けたもの」
ケルブという天使はエデンの園の番人であった。アダムが神の命令を無視して「禁断の実」を食べてしまったので、神はもしかしたら「命の木」の実までも食べて神のように永遠に生きるのではないかと危惧して、それが出来ないようにケルビム(複数形)に回る炎の剣を取らせて、その実を食べさせないようにしたのだった。そのケルビムが次ぎに現われたのは、流浪するイスラエルの民の陣の真ん中に位置する天幕の奥の至聖所と言われる所だった。そこには契約の箱があり、その上の蓋に対座して置かれていた。もちろんそれは人の手で造られた天使であった。彼らが蓋の上でする務めは何かと言うと、顔を突き合わせながら足元の蓋を見続けることであった(出エジプト25:20)。私はその箇所を読みながら、なぜケルビムが蓋を見続けるのだろうかと疑問であった。
その蓋は「贖いの場」と呼ばれ、至聖所に安置されていた。そこに大祭司が年に一度だけ入って、その場に動物の血を注ぐのである。それによって一年間の民の罪が赦されるのだった。イスラエルはそれを毎年繰り返していた訳である。契約の箱は神の臨在そのものだったので、人々がかつての「命の木」のように触れて死ぬことがないように、天使ケルビムがそれを守っていたのだった。
主イエスの時代、ヘロデの神殿があった。主イエスが十字架について殺された時に神殿の聖所と至聖所とを隔てている幕が上から真っ二つに裂けるという現象が起こった。それは厚い緞帳のようなもので、人が力で切り裂けるようなものではない。神ご自身のみ業であった。つまり主イエスが十字架で血を流して死んだことによって、神はご自身と人々との間にあった垣根をご自身の側から取り払われたのだった。神と人とが共に生きるという本来のエデンの園の回復であり、人は自分で思い立ったら、いつでも神に近づけることを意味した。
至聖所は年に一度、大祭司以外は誰も入れなかった。ただ主イエスが真の大祭司として、ご自身の血を十字架という「贖いの場」に注ぐことによって、それまで毎年注がれていた動物の血によって一年だけ赦されていた民の罪が、今度は永遠に赦されることになったのである(へブル9:12)。その「贖いの場」にいつキリストの血が注がれるだろうか。それによっていつ人類の罪が赦されて神と人類とが一つになることが出来るだろうかと、満を持して「贖いの場」を見つめ続けていたのが、ケルビムだったのである。彼らが見つめていたのは主イエスの十字架であった。十字架が聖書の中心であるというゆえんである。