石叫■           「神の大きな働き」

 使徒行伝2章にはペンテコステ、つまり聖霊降臨」の出来事が記されている。主イエスが十字架の死から復活して丁度50日目のことである。これは生前からの主イエスの予言であり、旧約の幾つもの予言の成就であった。これによって聖霊の力を受け、主の復活の証し人となるためであった。なぜこの現象が起きたのかというと、それは神の霊が実際に働いているということを見えるかたちで人々に表し、神の約束が成就したことを世界に差し示すためであった。

 はじめ世界の言葉は一つであった。だがメソポタミアにはレンガやアスファルトがあるので、人々は天に届く塔を建てて名を上げ、全地に散るのを免れようと考えたのだった。これがバベルの塔である(創世記十一)。つまり自分たちが神のようになろうとしたのであった。そこで神は、もはや人間のすることは何事もとどめることが出来ないと考えて、下って行って彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにされたのだった。そこで世界には多くの言語が出来たという訳だ。しかし、このペンテコステの時、人々は異言を語った。今まで全く学んだことのない言語を語るという現象である。言語は違うのだが、語っている内容はすべて同じであり、神の大きな働きを讃えるものであった。それは今度、神が聖霊によって世界の人々の心を一つにしようとしたからであった。

 現代は親子でも言葉が通じないし、心も通じない。同じ屋根の下に居ても、それぞれがアパート暮らしをしているというのが現状である。だから心を一つにする必要があるのではないか。それはキリストご自身の霊である聖霊によってはじめて可能となる世界である。主イエスの大きなみ業を賛美することによって私たちは一つとなれるからだ。それがペンテコステの本来の意味である。

アブラハムは「主イエスの栄光をみた」(ヨハネ8)とある、イエスの二千年も前の人物が主の何の栄光を見たのかと言うと、それは主イエスの十字架と復活のみわざである。それを聖霊という神の助けによって見て、理解して、信じたのだった。復活のない十字架だけでは、死んだ教えになってしまうし、聖霊が下らなかったら、時空を越えて見ることも、信じることも出来ないからだ。その十字架と復活と聖霊の三つが神の大きな働きであり、主の栄光である。モーセ(ルカ24)にしてしかり、イザヤ(ヨハネ12)にしてしかり、ダビデ(使徒2)にしてしかり、彼らはその栄光を見たのである。その同じ聖霊が今も私たち信じる者に注がれている。それはただに神を賛美するためである。