石叫■            「プレゼント」

先週の18日(土)の夕方から恒例のクリスマス祝会がオレンジ郡教会で開かれた。その中味たるや日曜学校の子供たちの歌や、聖歌隊、優雅なゴスペル・フラ、英語部の高校生たちの証し、初めての日語部によるバンド演奏や幼稚科の元気の良い賛美、詩吟、そして締めくくりの青年会のスキットなどである。

今回のスキットは瀬戸一典兄が脚本を書き、池田周一兄と一緒に監督までしてくれた。それは太陽の神が人類を救おうとする話と、放蕩息子の兄がへそを曲げて家を出て行ったという二段構えであり、出演者がそれぞれにプラカードを持って出るという流れである。

さて、太陽神は地球がその寿命のために滅んでしまうことを知って、人類を助け出す方法を教えるために祭祀を使わした。しかし、人類は彼に聞こうとはしなかった。むしろ自分たちの考えで救われる方法を案出する。知恵をたくわえたり、難行苦行をしたり、精神修行をしたりするという方法である。だが、どれもこれも限りがあった。人は自ら飛ぶこともできないし、いくら高い山に登っても、太陽にはとどかないのである。そしていくら大きな船を造って大海原に出ても、そこはやはり地球の中であった。一方、祭祀は人類を救おうとして自分の身を包む物を用意していた。やがて地球最後の日がやって来て、人類は滅んでしまった。だが、祭祀の言いつけを守って自分の身を包んでいた人たちは、太陽神の迎えの船に乗って宇宙空間を太陽へと進んでいった。ふと気が付くと彼らは太陽の中に居るにも拘らず、とても快適であることに気が付いた。そして彼らは太陽神と永遠に生きたのだった。   

放蕩息子の兄の場合には、父から迎えの使用人が来てぜひとも家に帰って来て欲しいと嘆願された。だが、彼はいかに自分が正しかったかを主張したのだが、それよりも使用人は父がどれほど彼を心配しているかを知って欲しいというのであった。つまり、前者は救いの時と方法とは神が備えるものであり、後者は人間の正しさは父の愛の前には何の意味もないというストーリーである。

パウロは第Uコリント6章2節で、「今は恵みの時、見よ、今は救いの日」と宣言する。神の救いは今だという。今とは英語でプレゼントと言う、これは「贈り物」という意味である。この今こそ神の贈り物なのである。だから今、神の救いを信じる「信仰」を身に着けて、御許に帰ろうではないか。北島さぶちゃんのように「帰ろかな、帰るのよそうかな」と言っている場合ではない。時間には限りがあるからだ。プレゼントである今のこの時を無駄にしてはならない。