石叫■            「私にならえ」

 私たちは時に「この私を見ないで、私の背後にあるイエス様を見て下さい」と言う証しを聞くことがある。それは謙遜もあるのだろうが、それだったら、自分たちの信仰生活はどうなっても良いのかというと、もちろん、そうであってはいけない。どうしてお互いは「私にならえ」と言えないのであろうか? 

第一コリント4章でパウロは「あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい」(16節)と宣言する。以前、これを読んだ時に、やはり彼の人格は素晴らしいからそう言うのであって、とてもじゃないが、私にはついて行けないと思っていたものだ。もっともパウロは自分自身を誇るほどに律法において完璧だったからであり、彼が属するパリサイ人というのは、そういう完璧主義集団であった。それは律法を完全に生きることが救いであると信じていたからではあったが、そこには落とし穴があった。罪意識であり、彼らはそこから抜け切ることができなかったのである。律法を守るという行為は表向きは完璧でも、人の心は依然としてどうしようも出来ない暗闇の中にあったからである。  

パウロはローマ7章において、「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである…そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と告白している。心の内はどうにもならなかったのだ。でも彼が主イエスに出会った時、自づと罪から解放されていることを知ったのである。そこで「神は感謝すべきかな」(8・二五)と叫んだのであった。そして罪に縛られている同胞に主イエスこそ救いだと叫んだのだった。

さて、この「私にならえ」であるが、パウロが人格的に優れていることは論を俟つまでもない。だが彼は何も自分を誇ってそう言っているのではない。かつてはその誇りの中で生きてきた彼ではあったが、主の愛に生きる幸いを知った時、それまでの誇りはどうでもよくなったのである。彼は主を信じた時、主に喜ばれる生き方をすることこそが彼の使命だと知ったのである。それは主に対する愛から来ている。その愛を知った者としての喜びと熱情が、彼をして「私にならえ」と言わせたのだった。人を変えるのはそのように私たちの内側に燃える主への愛という信仰だけである。その彼の熱情が世界を変えたのである。 

人はあなたを見てキリストに心を開く。それはあなたから出る主への熱情がそうさせるのである。果たしてあなたは、その愛に燃えているだろうか?