石叫■           「感謝祭の腎臓移植」

感謝祭のサンデーであった。礼拝が終わって教会二階の牧師室にいた時であった。息子から携帯に電話があった。
ある方とカウンセリング中だったので、終わってから返信しようと思っていたのだが、二回コールが続いた。
こんな時間の電話は緊急に違いないと思い携帯を取ったところ、UCLAからで緊急の用だという。
そこですぐにコールバックしたところ、「良いニュースです。節子の腎臓が見つかりました! 

ですから水を飲まず、食事もしないで、すぐに来て下さい。今晩八時に腎臓移植をします」と言うではないか。
とっさの電話ですぐには信じられなかったのだが、早速教会関係者に連絡し、祈ってもらって家に飛んで帰った。
家内は母の看護で礼拝に出られないサンデーが続いていたので、教会には居なかったからだ。

「節子、移植だ。すぐにUCLAに行くぞ!」と言って家に上がりこみ、母の部屋にも行って、同じように叫んだ。
家内も母も心臓が飛び出すほどの驚きようようだった。

取るものも取り合えず、車を飛ばし、真新しいロナルド・レーガン・メディカル・センターの八階に落ち着いた。

さあ、それからだった。レントゲン、採血、エコーと次々と検査が始まる。移植担当の医師、心臓の医師が検診をする。
一通り終わった頃だ。移植担当医師が電話している声が聞こえてきた。
「今の患者さんは呼吸の時にゼイゼイという音が聞こえる。何かがあるようだ。
レントゲンで確認する必要がある」と言う。もしかしてという一抹の不安が脳裏をよぎった。
オペ予定の一時間前、さっきの二人の医師が神妙な顔で入って来る。「

ああ。これはまずい!」と、とっさに思ったのだが、案の定、「まことにすまないが、右肺に水が溜まっていて、感染している可能性がある。その部分の液体を直接取って検査しないうちは移植出来ない」と言うではないか。さっきまで天に昇るような喜びだったのに、一転して今度は奈落の底である。もっとも移植はもう出来ないのではないかと半分あきらめていた程、医師から家内の移植の可能性は薄いと言われていたし、人口透析しているからオペはしなくても良いのではないかとも言われていたので、半分あきらめていたような時だっただけに、今回のニュースは実に驚きであった。だから移植出来ると分かった時、逆に失望が希望に変わったのだった。

パウロはローマ書で「希望は失望に終ることはない」(5:5)と宣言する。
それは彼が神の愛が注がれている事実を体験していたからであった。希望は神から来る。
それがパウロの実体験であり、私たちの希望も神への信仰から来る。