石叫■    「日米戦争回避の鍵を握っていた人たち」C

 パトリック・バーン神父は1888年に生まれ、不幸な事故で兄弟を失ったことが聖職者への道を選ばせた。メリノール会の副総長として1935年に来日した。滋賀県で活動を開始し、二年後には京都教区の初代教区長となった。

 1941年に日米戦争が始まると、ほかの在日アメリカ人と同様、アメリカ人宣教師たちは母国に送り返されたが、残ったのがバーン神父であった。終戦後、大きな問題があった。それは占領軍がやってきて暴行されるという恐怖であった。そこで何とかしなければ、と言うので白羽の矢が立ったのがバーン神父であった。日本を愛し、日本にとどまった彼の口から上陸前のアメリカ軍将兵に向かって、バーン神父はNHKから、「わが息子たちよ」とラジオで訴えた。

「あなたたちは、全世界の注目の中で試みられています。あなたたちのどんな暴力や不道徳、どんな不正や犯罪行為も、あなたたち自身の人格を汚すばかりでなく、あなたたちの代表する国家を汚すことになります。私には日本の人々の恐れが理解できます。日本へ来る兵士たちよ、私は、あなたたちが親切な心をもって来るよう、そしてこれらの人々のよい友達になるよう、切に勧めます。しかし、日本の人々の苦悩を理解するよう努めて下さい。そして大国の代表として穏やかな温かい振舞をして下さい。恐らく二、三カ月後に、彼らはあなたたちをよりよく理解するようになるでしょう。それからあなたたちと彼らとの間に親密な友情が生まれるであろうと私は思います」。バーン神父のメッセージは、日本人が知らないところで、何度も英語で放送された。そして将兵たちの心を打ち日本人を救った。彼は「第二のマッカーサー」と言われた。彼は1947年に朝鮮半島に渡り、朝鮮戦争勃発後、北朝鮮軍に囚われの身となる。そして、雪嵐が襲う酷寒の中を、病と飢えに苦しみながら、最果ての地へ徒歩で向かい、落伍者には銃殺のみが与えられるという八日間にわたる「死の行軍」のさなか、みずからの食糧をいっしょに歩く人々に分け与え、神に命を捧げたのであった。「司祭になったという恩寵以外に、キリストのために苦しむ恩寵を与えられたことは、私の生涯における大きな恵みである」という感謝の言葉を残して。1950年11月25日と言われる。(斉藤久吉氏ブログより)

 パウロはピリピ書で「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(1:29)と宣言する。バーン神父の何という献身の生涯か! そして圧倒的なキリストの愛か!