石叫■ 「日米戦争回避の鍵を握っていた人たち」@
クラレンス・ピケット氏はフレンズの代表としてアメリカの最も困難だった不況時代と、太平洋戦争前後の最も混沌とした時代を乗り越えてきた。特にドイツ復興の功績によって1947年には「ノーベル平和賞」を受賞している。
太平洋戦争直前の1941年7月11日、クラレンス・ピケット氏の義兄・ギルバート・ボーレス宣教師が東京フレンズ・センターから海軍大将・野村吉三郎駐米大使に手紙を送り、ピケット氏を紹介している。そして野村大使と近々、両国のひっ迫している情勢に関して話し合いができないものだろうかと打診してきている。コーデル・ハル国務長官がユダヤ人救済に乗り気でないことにピケット氏は激怒していたし、1941年11月26日のハル長官の「ハル・ノート」と言われる最後通牒的対日政策は、日本海軍の真珠湾攻撃を目前にしても、太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル提督にも知らされてはいない。ルーズヴェルト大統領としては、それは誰にも知られたくない思惑だったからである。それをキンメル提督が知っていたら、日本帝国海軍の真珠湾攻撃を未然に防ぐことができたであろうからである。それでは自ら戦争はしないという1940年の選挙戦で三選される前に公約していた彼にとって、戦争への口実を見つけることができなくなり、ドイツ軍侵略の危機にあえぐチャーチル首相の叫びに答えることができなくなるからだ。この思惑に日本は乗ってしまった。
もし事前に「ハル・ノート」をピケット氏が知っていたら、日本は追い詰められて戦争に突入するしかないという状況をアメリカ国民に訴えることによって彼らの良心に訴え、それによって日米戦争は起きなかったのではないかと、今にして悔やまれるのである。というのは、マッカーサー連合軍総司令官自身も1951年五月、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で、「したがって日本が戦争に突入したのは、主として自衛のためにそうせざるをえなかったのである」と、証言しているからである。アメリカは大統領が動かしているのではなく、国民がアメリカを動かしているからだ。日米間の歴史においてピケット氏の民間人としての平和への期待がこの時ほど渇望された時はなかったであろう。
「その十字架の血によって平和をつくり…彼によってご自分と和解させて下さった」(コロサイ1:20)とパウロは言う。平和は主イエスの十字架のみわざを信じることによって初めて得られる世界だからだ。それが平和の土台であり、つくるものなのだ! お互いに理解し合うという努力こそ平和の一歩である。