石叫■       「ノーベル平和賞以上の貢献」そのA

ところが在米日系人や日本に対するフレンズ(クエーカー)の貢献はドイツでの三年間の働きどころではない。太平洋を越えて1891年の濃尾地震から1988年の日系人の賠償金問題に至るまで、合わせて一世紀にも及ぶ。人数的にドイツのように100人、150人とヴォランティアを送った訳ではない。

日本での戦前の濃尾地震、関東大震災は言うに及ばず、戦後は七年間にわたってララ救援物資が送られている。そして一千四百万人もの日本人がこの恩恵に与っている。これは日本人の六人に一人の割合である。これらの救援物資のうち、フレンズは二五%もの物資を供給してきたのだった。これは実に多くの無名の人たちの献身の現れである。さらにはフレンズの間では「伝説の人」と言われ、原爆投下直後の広島に入って数多くの住宅を建てたフロイド・シュモー氏の場合には、文字通り「ノーベル平和賞」の候補にまで上がっている。

アメリカでは、フレンズが戦争勃発と共に日系人収容に関わる多くのケアーをしている。代表のクラレンス・ピケット氏は四千人近い日系人学生に大学の門戸を開くために組織的に関係者を取りまとめている。そして戦後の強制収容所などから帰還する日系人のシェルターとして、百カ所にも及ぶホステルが諸関係団体によって全米に開設され、総勢五千人ものケアーをすることになった訳だが、それも「戦時転住局」(War Relocation Authority:WRA)長官であるミルトン・アイゼンハワー氏がフレンズ奉仕団に取りまとめをお願いして始まったものであった。その他にもアメリカと太平洋を越えて日本にも及んだ数々の愛の奉仕がある。しかも、それらのフレンズの働きの多くは戦時下や戦後直後のことであり、実に勇気の要る働きであった。それだけに不安の極みにあった人々をどれだけ慰めてくれたことであろうか! これは誠に賞賛に値する。

そして思う、彼らフレンズは日本人、日系人のために彼らがかつてドイツで受賞した「ノーベル平和賞」以上の働きをしてくれたのであると! 彼らの働きを知る者の中では、それらの奉仕が今もなお感動をもって語られている。

マタイ福音書に「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」(6・3)とあるが、善行は秘かにすべきである。クエーカーたちは「静かなアメリカ人」と言われるが、彼らは決して人前ではラッパを吹かない。だからこそ人々は彼らを慕うのである。そして結局、私のように周りがラッパを吹くようになるのである。私たちも彼らの善行
にならうためである。