石叫■ 「役人とザアカイ」
ルカ福音書の18章に「富める役人」の記事と、19章にある「取税人ザアカイ」の話ほど対照的な内容はない。
今回はそのハイライトを学んでみよう。
富める役人は主イエスのもとに走り寄ってひざまずく(マルコ10章の平行記事)。彼が心から主を信頼している様子がここから伺える。そして「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と問う。彼は神の祝福が、人間の行為で得られると考えたのである。当時の人々は旧約の世界に生きていたために、モーセの律法を行うことによって永遠の命が得られると考えたのだ。それが「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい」と主から言われた時に、彼はそれができないと知って非常に悲しんで帰ってゆく。だが、この主イエスの言葉ほど厳しいものはない。一体どこの誰が自分の財の一切を捧げよと言われて、ハイそうですかと言える人がいるだろうか。実際、主ご自身が、「神の国に入るのはなんとむずかしいことであろう」と述懐している。
一方、ザアカイは税金取りとして人々から嫌われてきたのだったが。そんな彼でも、とにかく主を見たいと思ったのだ。そこで彼も走っていちじく桑の木に上った。その下を主が通られるからであった。その主が彼を見上げて、彼の名を呼んだ。それは今まで誰もしてくれなかったことだ。それは彼の友となったことであり、神の愛を知った喜びを意味していた。その時に彼の心は喜びに満たされ、変えられたのだった。その彼は「自分の財の半分を貧しい人々に施します。不正な取立てをしていたら、それを4倍にして返します」という返答をしている。主を心の友として迎え入れたザアカイにとって、もう財は二の次だったのである。救いの喜びに満ち溢れていたために、心はすでに神の国に向けられていたのであり、それによって彼の価値観が変えられたからであった。
主は富める役人に、「貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と言われたのは、あなたの価値観を変えよという意味なのである。それが彼にはできなかった。自分を愛するということはしてきても、他者を愛するということは想定外だったからである。でもザアカイのように目の前に立っているイエスを心の友として受け入れることによって、神の愛が芽生える時、それができるようになるのである。主を信じる信仰が私たちの価値観を変えるからであり、それが天に宝を積むことになるからである。たった一度しかない人生である。ザアカイのように嬉々として生きたいものである。