石叫■ 「祝福はみんなで」
『アシュラム』誌が毎月送られてくる。そこに「牧会者の静聴」というコーナーがあり、そこが今回も光っていた。
樋口洋一牧師のコメントである。
「ペテロがイエス・キリストの言葉に従って奇跡の大漁を見たあの物語。『そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった』(ルカ福音書5・7〜8)。おそらく神の恵みとは、この場面のようなものです。奇跡の大漁は神の祝福そのものなのです。しかし、ペテロは一人ではこの魚を舟の上に引き上げられなかったことに注意したいと思います。彼がもしもこの大量の魚を一人占めにしようとしたら、いつか網をつかむ手がしびれ、力尽きて手放すことになったでしょう。大量の魚の入った網は湖の中に落ち、せっかく入った魚を全て失ったことでしょう。神の恵みはそのようなものに見えます。一人だけでは与ることができないようです。ペテロは助けを呼びました。手を貸したのはペテロの仲間、ヤコブとヨハネです。三人で引き上げて初めて、彼らは神の恵みである魚を獲得することができました。ペテロ一人ではこの恵みの魚を引き上げられませんでした。一人では神の恵みを受けとめられないのです。この弟子たちの間に対立があったことを聖書は伝えます。しかしイエス・キリストの福音には最初から『二人または三人で』という性格がついて回るようです。隣人なしに福音に与れないのです」
ペテロは大漁だと分かった時、おそらく、その現実に戸惑ったであろう。それまで一晩中漁をしても一匹も釣れなかったのに、主の言葉に聴き従ったところ、一人では引き上げられないほどの大漁に、プロとしてのプライドが全く打ち壊されてしまったからである。人がどんなに自負している世界であっても、神の言葉は、それを打ち破って神にのみ信頼するという信仰に目覚めさせてくれる。これがペテロの心の目が神に向けられる切っ掛けになったことであろう。
この神の祝福というのは主イエスの弟子とか、特定の人々に与えられるというものではない。聖書でもっとも重要な教えである「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マタイ22・39)という神の戒めにもあるように、本来、神の祝福というのは、隣人にも分け与えるべきものだからである。それによって各人の喜びが倍になり、神の祝福はますます拡大されてゆくからである。