石叫■            「心の眼」

 伊藤肇の「人間学」という本がある。折に触れては手に取る私の愛読書である。その中に「心の眼」で見ることの大切さを訴えたキラリと光る記事がある。

「銭湯にはいると、人は他人の前に裸をさらさねばならない。同様に監獄へ入ると、人は遅かれ早かれ心の衣装を脱がされる。だから、監獄へ入った時こそ人間の真実を知るための最上の機会である。A級戦犯で刑死した土肥原機関の土肥原賢二が同じ戦犯の後輩にしみじみといい遺したことがある。『君は若いから、も一度、娑婆に出られるだろうが、俺はダメだ。巣鴨プリズンへ入れられてから、よくよく考えてみると、俺は陸軍幼年学校から士官学校、陸大と出世街道をひたむきにつっ走しってきた。そして、気がついた時は巣鴨だった。この獄庭には木も草もない。ところがたった一本、隅っこから生えてきたあの水仙の何と美しいことか。自然は美しいなあ。君がここを出たら、田舎で静かに自然の美しい姿を心の眼でみろよ。俺も長くシナ大陸にいたが、心の眼でシナをみたことはなかったなあ。君、この言葉が俺の遺言だよ』。その後輩は、これを聞いて、人生が一変した。以来、『心の眼で美しい日本の姿をみて、何時死んでもいいという覚悟で毎日を送ろうと考えるようになった』と告白している」

 この刑務所に咲いた水仙は、土肥原賢二ひとりの心を開くために咲いたのであろう。本来なら人通りの多い公園とか、手入れの行き届いた庭先で美しく飾られ、誉められて咲きたかったに違いない。だが、この花は一人のすさんだ心を慰め、励まし、希望を与えるために、ただ一輪そこに身を投じたのである。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12:24)とあるが、本来は草木も何も無い無粋な私たちの心の庭の片隅に、神が一粒の愛の種を落として下さったのである。それは個々人の心の眼を開き、神の愛に目覚めるためであった。神の愛は個人的に働きかける性質のものである。そのように自分のものではない神からもたらされたきよい種なればこそ、それが開花する時、人々の心の眼を開くのである。何の欲得もなく。何の報いも打算もなく、ただ神に向かって一生懸命咲くその健気さが人々の心を変え、心に感動を呼び起こすからである。心の眼で見るというのは、そのように人の心にキラリと光り輝く宝のような性質を見出そうと努力することである。あなたの隣人の心にそのように植えつけられている神の愛を心の眼でしっかりと見たいものである。