石叫■ 「キャスト」
ペテロは「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(Uペテロ5:7)と勧める。日々に思いわずらう私たちであればこそ、彼はゆだねることの大切さを訴えたのだ。
「ゆだねる」は、英語ではキャストが使われている(Cast all your anxiety)。この言葉を検索すると百近い意味や
用語法が見られるが、本来は投げるという意味だ。それが日本語ではゆだねるになる。その例を幾つか考えてみよう。
Tサムエル17章に、後のイスラエル王になる少年ダビデがぺリシテの巨人ゴリアテに立ち向かう記事がある。
相手は職業軍人であるが、ダビデは羊飼いであり、戦争経験がない。そこで使いなれた石投げを取って彼は立ち向かう
のであるが、どんなに戦争経験があっても、戦場に出るというのは恐怖であろう。まして一対一であれば、それはまさに
死ぬか生きるかであり、正常ではいられまい。そのような状態の中でダビデの心を奮い立たしめたものは何かと言うと、
戦うのは自分ではなく、共にいて下さる神であるという信仰だった。
「主は救いを施すのに、つるぎとやりを用いられない。この戦いは主の戦い」(47節)とあるからだ。
「かえりみ」て下さるのは神だから、自分はそれに付いてゆくだけだと考えたのだ。
そこで手にある石を「キャスト」した。つまり主にゆだねたのだった。どんなにビビる状態であったとしても、その思い
煩いをゆだねる時、それを受け取って下さる神が居られるのである。その主が戦って下さるのなら、決して負けることは
ないという信念がダビデを戦場に一人駆り立てたのだった。
ペテロにしてしかり、夜通し働いても一匹も獲れなかったプロの漁師の彼に、おそらく漁をしたことはないであろう
主イエスが、「沖へこぎだし、網をおろして漁をしてみなさい」(ルカ5:4)と言われたのだった。
そこで、しぶしぶ「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、網を「キャスト」したのである。
そうしたところ聞いたこともないような大漁を経験したのである。漁をするためには沖へ出なければいけない。
そこには大波や揺れという困難があるだろうが、主はそこに進み出でて「キャスト」せよと言われるのである。
そこでしか得られない大漁という豊かな「かえりみ」を与えたいからなのである。
あなたの手にある武器にもならないような石でも、洗って干さなければすぐには使い物にならないような網では
あっても、それをも用いて祝福に変えて下さるお方が私たちの主である。要はそれを主に「キャスト」することである。