石叫■ 「謙遜」
聖書の中でもっとも重要なクリスチャンの特質といえば、謙遜であろうか。
主イエスはこれを教え、またこれに生きたお方だった。今回はそれを学びたい。
サムエル記上15章のイスラエルの最初の王サウルはアマレク人と戦う時に、神は彼らの一切の所有物を滅ぼすようにと大祭司サムエルを通して命じている。
アマレクはイスラエルがエジプトを出た時に、彼らの隊列の後ろで遅れがちな婦女子を殺して彼らを悩ませた憎き敵であった。
そこで戦いに出たところ、敵の家畜の中にはとても立派な牛や羊があったため、サウルはイスラエルの神への捧げ物として、
殺さずに残しておいたのだった。
だがサムエルはアマレクの全ての物を全く滅ぼし尽くすようにと、3度も言葉を変えて滅ぼせ、許すな、殺せと命じておいたのだった。
神に全く従順するかどうかの試みだったのだ。
戦いが終わり、サムエルはサウルに会いにゆくが、その直前に神は、
「サウルは…わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかった」と彼に語る。神の痛みを自分のこととして覚えながら、
神が滅ぼせと厳命した家畜を見、怒りに震えて彼を糾弾する。でもサウルは自己弁護する。「人々が引いてきた」と。
しかも、「民は、あなたの神、主に捧げるために羊と牛のもっとも良いものを残した」と語る。
イスラエルの神を他人事のように語る彼にもう王の資格はなかった。
でも、なぜそのようにサウルが言ったのかというと、立派な家畜を神に捧げることの方が神に喜ばれることだと思ったであろうし、
またそのように民に説得させられていたからである。「民を恐れて、その声に聞き従ったからです」(24節)とある。
見えない神よりも目の前の人々の声の方に説得力がある。つまり民を恐れることが彼の問題であった。
しかもサウルは自分のために戦勝碑を建てたり、サムエルに糾弾されても民の前に自分を尊んでくれと彼に嘆願する始末。
彼にとって神は単なる飾りであり、利得のための存在でしかなかった。
でも一体、誰が民を恐れずにおられよう。自分を誇れずにおられよう。
そう考えると誰が神の前にへりくだって、その命令を実践できるのだろうかと思う。
そうなのだ! 神の前に謙遜になるというのは、人には出来ないことなのである。主イエスの助けなくして、私たちは謙遜になれない。
主イエスの、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死にいたるまで従順であられた」(ピリピ2:8)
という十字架の死を自分自身のこととして受け留めることなしには、神の前に従順ではあり得ない。
謙遜こそは神ご自身の特質なのだから。