石叫■             「アラカン」

皆さんは「アラカン」という言葉をご存知だろうか。私はこの言葉を聞いてはいたが、昨年のクリスマス・カードに
それが記されてあるのを知って愕然としたものである。当初この言葉を聞いた時、一体何という英語だろうかとハタと
思い巡らしたものである。これをある一定の年齢以上の方に尋ねると、「嵐寛十郎ではないか」という応えが返ってくる。
でも、この真意は還暦を迎える年代になったという意味であって、それは“アラウンド・カンレキ”という英語と日本語を合わせて短くしたものである。40才代になると、「アラフォー」というそうな。この場合は英語だけであって、
「アラウンド・フォーティ」だという。何だか近頃の日本語はいろいろな国の言葉がチャンポンになってしまっていて、
とても付いては行けない気がする。特に日本人は物事を小さくまとめ上げるのが得意ということもあって、言葉までも
そうしているのであろう。

還暦を迎えた私は、いわゆる干支が一巡したことによって全てが新しくされたという訳だが、もちろん、これは
クリスチャンには何の意味もない。でもこの風習も用いようによっては、とても意義深いものになるのではあるまいか。
パウロも、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」(Uコリント5:17)と記すように、心を一新することによって何か第二の人生が始まったようでもあり、緊張した気分にもなる。やはり還暦は祝福なのであろう。人生に一度しかない
区切りである。生まれ変わりという爽快な気分でいたいものである。

そこで何か新しいことをと考え易いのだが、私たちはたとえ明日、世の終わりが来たとしても、いつもと変わらずに
生きるという自負がある。内村鑑三著に「一日一生」という名著がある。私たちは今日が人生の最後であるかのように
生きるのであって、信仰によって日々満足ができ、悔いのない人生に変えられてゆくという確信から来る考えだ。
だから日々聖書を読み、祈り、賛美し、神に喜ばれる言葉と心とをもって仕えるのである。これは生涯変わらない。

これまでの私の60年の歩みは、生きてきたというよりも一方的な神の愛と憐れみとによって、生かされてきた日々で
あった。それは何よりも感謝感激であり、どんなに言葉を尽くしても尽くすことのできるものではない。
その意味において、この還暦という人生の節目にあたり、「アラカン」とは、「改(アラ)めて感(カン)射をすること」と捉えたのだが、如何なものであろうか?