石叫■           「ヨベルのラッパ」

ユダヤ人の約束の地であるカナンのエリコの城を攻め落すためには、彼らのリーダーであるヨシュアの下に一週間
黙々と町の周りを歩かねばならなかった。一見無駄と思える行為だが、彼にはれっきとした理由があった。
それは彼がそのようにせよという神の声を聞いていたからである。その神とは、ヨシュア記5章に現れた「軍勢の将」
であり、「大将はわたしだ。ヨシュアよ、お前はわたしに従え」というメッセージであった。
その神に従う限り、打ち負かされることはないというヨシュアの確信が民を黙々と歩かせたのだった。
兵がどれだけ多く、力があっても、すべての勝負は神に従順であるか否かで決まるからだ。

 ルカ4章19節に「主の恵みの年」とある。これはレビ記25章とイザヤ書61章のヨベルの記事の引用である。
ヨベルとは「雄羊の角」の意であり、一切の奴隷状態からの解放という宣言である。旧約では2回しか使われていない。

一回目は出エジプト記19章の神の律法が与えられた時であり、雄羊のラッパがシナイ山から響いている。
律法は神の「恵みの訪れ」の予表だからである。もう一度は、このエリコでの時だ(ヨシュア記6章)。
神に従うことによって約束の国に入れるという教えである。
でも実は、三度目のラッパが、このルカの、「主の恵みの年」を告げ知らせるという箇所で高らかに鳴り響いている。

主イエスは、「この聖句(ルカ4章19節)は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(21節)と言って
ご自身のメシヤ宣言をしているが、ご自身が十字架につくことによって罪の奴隷状態にある全人類を解放するという
真のヨベルが到来したという意味である。ここから主の十字架に向けての生涯が始まる。
もちろん、ここではエリコの時のように祭祀がラッパを吹いたという訳ではない。
主はただイザヤ書61章にあるこのヨベルの記事を読んだだけである。
でも天上では、けたたましいばかりのヨベルが吹き鳴らされたということなのだ。

 私たちにとってエリコの城とは日本人救霊ではなかろうか。それは世界でも最も高く堅固な城壁だ。
でも先立つは主であり、主イエスご自身が一緒に歩いて下さるのである。さあ、心の耳を傾けてごらん、ヨベルのパッラが聞こえてはこないだろうか? 
その音を聞きながら、あなたの目に前にある石垣に向かって叫ぼうではないか。あなたの祈りと賛美のみが、頑なな同胞の心の城壁を砕くからである。
だから心を合わせよう。不平不満を言うのではなく、むしろ勝利をもたらす神を賛美しながら、歩こうではないか。新年はそこから始まる。