石叫■           「切り札」その@

古来、切り札という言葉がある。トランプなどの賭けに使う言葉だが、実はこれほど
日系人補償にピッタリあてはまる言葉はない。その紹介をしよう。

日米大戦中に強制収容された日系人に対する保証請求法案は議会を通過し、1948年7月2日
にトルーマン大統領がサインをして、日系人立ち退き保証請求は、ついに日の目をみた。
ところがこの支払いにはいちいち議会の特別措置が必要であり、その煩雑さのため、最後の
補償金が支払われたのは、立ち退きから23年後、補償請求法成立から17年後の
1965年のことであった。

しかし、再度、補償金の話しがもち上がるようになる。その理由は、どんなに財産の喪失をしても
その最高限度額は2500ドルであり、その財産の評価基準も一九四二年当時のものであり、
補償請求をしても、支払いまで待ちきれずに死亡した人もかなりの数にのぼっていた。
そして何よりもアメリカ当局に日系人の保全の責任が任せられていたにも関わらず その補償計画の
杜撰さによって、財産損失補償は現実のものとはほど遠いものであった。

そこで再度1970年、強制収容所に収容された12万人の日系人への賠償金の話しがエディソン
ウエノ氏によってもたらされたのである。

18ヶ月にも及ぶ公聴会での検討の結果、1983年6月16日、当局はアメリカ政府が
キャンプに容れられた個人個人に2万ドル、計15億ドルの賠償金を支払うよう公式に国会に推挙した。
5年後にこの法案が可決成立してロナルド・レーガン大統領によってサインされるのを待つだけになった。
だが、彼はそれを1年あまりもほったらかしにしていた。

当時はレーガノミクスというユニークな経済政策にも拘らず、財政赤字と共に経常収支も赤字の状況であり、
保守的なレーガン大統領は、最初からこの運動に賛成していた訳ではなかったため、署名にいたるかどうかは
疑問視されていた。そのような危機的状況にあった時の“切り札”が、ジェーン・マスダの手紙だった。

ヨーロッパ戦線で名誉の戦死をしたカズオ・マスダ軍曹は、首都ワシントンにあるアーリントン国立墓地に
埋葬できたのだったが、遠く離れた東部に埋葬するよりも、遺族は彼の生まれ故郷であるこの
南カリフォルニアに位牌を埋めたかった。それをサンタ・アナ市に問い合わせたところ、

「ジャップを埋める墓などない」と、言下に言われた。また地元の人たちに、

「戻ってきたら殺す」とまで、言われた。(続く)