石叫■ 「遥かなる満州」
本年9月号『文芸春秋』に「昭和天皇と美智子皇后遥かなる満州」という名の手記が載った。
満州引き揚げ時に産婆であった永井トクという人物の秘話だ。
「まだ20代だったトクは、二人の幼児を抱えての引き揚げのさなか、多くの赤ん坊を
取り上げた。そのほとんどが数時間で亡くなった。医者も看護婦もおらず、産婆はトクひとり。
長くのびた逃避行の列のどこかから“おーい、産婆はいないかあー”という声がすると、
行かないわけにはいかない。
『それが草原の真ん中だったこともあった。水もないし、くるんでやる布さえない。
へその緒を切ってお母さんに抱かせて、そのまま。あの子はいったいどうなっただろうって、
いま思っても涙がでるねえ』。
出産を終えた母親は三十分も休まずに立ち上がり、また歩きだしたという。
脱落はそのまま死を意味した。けが人や病人をかえりみる余裕は誰にもなく、
列から遅れないようにただ必死だった。
千振開拓団(黒竜江省)の40年記念誌に寄稿された文章では、暴徒に襲撃されて
重傷を負った12歳の男の子が、『まだ死なないのだから捨てないで』と泣いて母親に頼む
姿が回想されている。『死んだ赤ん坊をボロにくるんで、腰や背負った荷物の上にくくりつけて
歩いている人がたくさんいたよ。もう死んでるって、まわりが言っても聞かないの』。
トク自身も、引き揚げの途中で4歳と2歳の女児を栄養失調で亡くしている。
一人目のときは、野犬に食われるよりはと川に流した。
トクは『あなた、ひどいと思うでしょう? でも、その場にいなかった人にはわからないですよ』
と言ってから、こう付け加えた。『男に生まれた方がよかったと、私は今でも思うの。
鉄砲持って戦って、弾に当たって死んだほうがなんぼかいい。あんな目に遭うよりは……
二人とも骨と皮になって死んでいった。最後の頃、水を飲ませると、無意識にびんの口を噛むの。
食べ物を噛むときみたいに、ガチ、ガチって。あの音が今も忘れられない』」。
この心の疼くような痛みを一体誰にぶつけたら良いのだろう。
一体誰が慰めてくれるというのだろう?
「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない…神は、彼らの目から涙をことごとく
ぬぐいとって下さるであろう」(黙示録7:16〜17)とあるが、それは神の仕事だというのだ。
イザヤ書に、「主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりと
なられるからだ」(52章12節)とあるように、人類の尻拭いをするのが神ではなかったか!
この神が私たちの痛みを知って下さるとは何という安らぎであろうか。