石叫■           「わが最高の喜び」

紀元前6世紀頃、イスラエル人は三度もバビロンに捕囚された。
そこで宴会があり、その酒の肴に彼らは、「シオン(エルサレム)の歌を歌え」
(詩篇137篇)と命じたのだった。

だが、どうしてそれが出来よう。それは神を辱めることであり、断じて出来ないことだった。
というのは、「もしわたしがエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わが舌を
あごにつかせてください」(同上)とあるように、シオンの神を最高の喜びとしないのなら、
この口が呪われてもいいとさえ考えた程に、イスラエルの人々は心から神を慕って
いたからだった。

申命記6章には、シェマー(聞け)と呼ばれる聖書で最も大切な戒めの一つがある。
人々は左ひじや額に箱をつけ、その中にこの箇所の言葉を書いた紙片を入れ、
神を忘れまいとした。
家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語り、心を尽くし、
精神を尽くし、力をつくして、神を愛そうと努力してきた訳だ。
詩篇84篇には、「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神に向って喜び歌います」
ともあるように、イスラエルの人々は、それほどまでに彼らの神を心から慕って生きて
きたのだった。

だが、どうしてそこまで熱心になれるのだろうか? 
あるいは、しなくてはならないのだろうか? それは逆に、それほどまでにしなければ
ならないほど、私たちは神を忘れ易いというのが、私たちの現実だからではなかろうか? 
神を愛することは強制ではできない。
それは「愛はおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますことも
しないように」(雅歌2)とあるように愛は自から沸きあがって始めて喜びが溢れ、継続する
力になるからである。

本来、私たちは自分の命が一番大切だと思って生きてきたのではなかろうか? でも聖書は
この私たちの命が一番大切だとは言わないのである。
車イスの詩人、星野富弘氏も、「命が一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と詠う。
そうなのだ。この世界には命よりも大切なものがある!「あなたの慈しみは、命にもまさる」
(詩篇63篇)とある。神の愛がそれである。

だから神はご自分の愛を与え、ご自身との命の関係に私たちを迎い入れるために、
その命を十字架に捧げて下さり、神への道を開いて下さったのである。

その道を歩く時、それがあなたの人生の最高の喜びに変わるのである。