石叫■           「忘れられない恩人」

「1942年5月29日、カリフォルニア州サンノゼ市の日系人たちは、もくもくと駅までの道を
たどりました。真珠湾攻撃以降、敵性外国人と決め付けられた12万人の日系人が全米十ヶ所の
強制収容所へと向かうためです。仕事と財産と夢とを奪われ、家を追われた彼らは、奇妙な
静けさのなか、両手に持てるだけの荷物と胸いっぱいの不安を抱えながら歩きました。
絶望と失意の中で駅についた時、彼らは一つのテントを見つけました。それは遠くへ旅立つ
彼らのために用意されたコーヒーとドーナツのブースで、クウェーカーのグループが用意した
ものでした。国全体が反日感情で突き進む時に、彼らの奉仕はとても小さなものでした。

しかしこの時の感動は60年たっても、“忘れられない恩人”として、日系人の心の中に
刻まれています」とあるこの記事は、2002年の『キリスト新聞』のクリスマス号に掲載された
塚本潤一宣教師のものだ。

当の奉仕をされた本人であるエスター・ローズ女史は次のようにつづる。

「日系人強制収容のために東洋人立ち入り禁止地帯となった町の公園から出発が予定された。
フレンズ派の人々はコーヒーを、さもなければせめてコーヒー沸かしを貸してくれる教会
グループを見つけようと努力したが、うまくいかなかったので、奉仕者は離れたパサデナで
朝の3時に起き、子供たちのためのバター・ロールや牛乳をもってその公演にゆき、午前6時に
バスが出発する六百名の日系人にそっと配った。その公演にはアメリカ在郷軍人会が小さな
ホールを持っており、そこに大きなコーヒー沸かしを備えていた。頼み込むと彼らは翌朝出発が
予定されていた別の日系人グループのために、喜んでそのポットを貸し出してくれた。

強制移住者が自分たちの持ち物をトラックに積むときに、その仕事にうってつけのクウェーカー
の人が手伝ってうまく詰め込めたので、何一積み残しをしないで済んだ。軍の士官たちは奉仕
するためではなく、指図する役目を負ってその場に臨んでいたのだが、その中の若い士官たちも
善意から子供たちをバスに助け上げたりした。
隣近所の人々や先生方も加わって来て、強制収容の友人を見送った。他の少数民族グループの
人たちは涙を流していた。
一人のメキシコ人女性は泣きながら言った『つぎは私だ。つぎは私だ』」。

 何とも胸の詰まる話ではないか。

パウロはローマ書で、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(12:15)と宣言する。
クウェーカーの人々がして下さった愛ある勇気を忘れてはいけない。
彼らこそ日系人の恩人なのだから。