石叫■ 「待望する力」
マタイ20章に「ぶどう園のたとえ」がある。これは天国の描写である。
朝6時から12時間働いた者も、夕方の5時から1時間しか働かなかった者も、同じ一日分の給料を
もらったという物語である。
これを読んで多くの人々は、神は何と不公平なお方かと思うのではなかろうか。私たち日本人は
どうしても勤勉さを美徳とするところがあるので、働かなかった者を裁く傾向がある。
でも、この夕方5時から1時間働いた人は、夜明け前から待ちに待って11時間もの間、炎天下を
じっと主人の来るのを待ち続けていたのである。
それは一日中働くよりも、もっと辛いのではなかろうか。
雇われる確信もなく、不安と焦燥と疲労と苛立ちと凝りとのあらゆる心理的圧迫の中に居たからである。
だから、そのように待った人の立場に自分の身を置いてみると、それに応えてくれた神の憐れみほど
嬉しいものはない。
この天国のたとえの結論は、「後の者は先になり、先のものは後になる」(16節)である。
つまり天国では私たちが考えるようなこの世の賃金体制はいっさい通用しない。そこは神の一方的な
恵みと憐れみの世界だからである。選民のユダヤ人であろうとなかろうと、信仰生活が50年であろうが、
昨日信じた者であろうが、神の祝福はイエスのもとに来る全ての者に、公平に与えられるというのである。
さて、辛いのは最後まで取り残されることである。今まで周りに居た人々が一人二人と居なくなる。
順番で居なくなるのなら未だ分かるが、自分より遅れて来た要領の良い連中が、次々と仕事に就いて
ゆくとする。これはいらだつ。あるいは友人が遅く来たとする。
「俺の家には、今晩子供たちに食べさせてやるパンもないんだ。お願いだ。今回は俺に仕事の順番を
くれないか」と嘆願されたら、人の良い人物だと、やはり心が動くのではなかろうか。
でもいったい、11時間何もせずじっと待っていた人は、何がそのように彼を待ち続けさせる力と
なったのであろうか?
それは、「なぜ、何もしないで、一日中、ここに立っていたのか」(6節)と主人自らが語ったように、
主人はこの人物を、初めから見知っていて、彼もこの主人の憐れみのまなざしを見知っていたにからに
他ならない。
たとえそれが一瞬であろうと、毎回人々を雇いに来る度ごとに主人の熱いまなざしを
彼は感じていたであろう。
ちょうどペテロが主イエスを裏切る直前に、主が彼に、
「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22:32)と言った様に、
ペテロが裏切っても主の憐れみの目は変わらずに注がれていたのである。そのように神の愛が注がれて
いると自覚する時、神を待望する大きな力となり得るのである。