石叫■           「なくてならぬもの」

とかく私たちは豊かな財があれば幸いと考え、そのために宝くじを買ったり、時には車で数時間先の
ラスベガス行きを考えることがある。そこは一攫千金を狙う人々の不夜城である。
かく言う私の父もかつてはよく宝くじを買っていた。それが厚みを覚えるほどであったが、
当ったためしがない。でも、それで良かったのだと思う。
何も無いような生活の中に急に莫大な財が入ると、九〇%近い人々が、やがて破産してゆくと
言われている。それはその富の使い方が分からないからだそうだ。

箴言に、「貧しくも無く、また富もせず、なくてならぬ食物で私を養ってください」(30:8)とある。
それは、どんなに巨額の財を得ても、それで人は満足できるものではないという教訓である。
主イエスはその無くてならぬ物について、ルカ10章で以下のように語る。

お客さんの接待に心を騒がしくしているマルタに対して、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに
心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。
いや、一つだけである」(10章41・42節)と諭している。 

マルタよ、あなたのように人の世話をすることも良いが、それでは心が乱されるばかりである。
それよりも大切なものは、あなたの妹のマリヤがそうであるように、わたしの話しを聞いて、神との
関係を正しくすることだというのである。

 ここ南加一帯に晩秋サンタアナ・ウィンドが吹くと火災が起こり易い。そのような災禍の中で良く
目にするのは、すべてを失っても命があることに感謝している場面である。 すべてを失っても、
人の命に優る宝はないからである。だが愛する者よ、実はこの私たちの命よりももっと大切なものが
あると聖書は言う。

それが詩篇の63篇にある、
「あなたのいつくしみはいのちにもまさる」(3節)という言葉である。 つまりこの世界で神の愛の中を
歩むことに優る大切なものは存在しないという意味なのだ。その絆がしっかりと結ばれると、このお方
との信仰生活が私たちの喜び、平安、希望となり、宝になるというのだ。 

詩篇に、「主はわたしの、私の相続財産、また宝です」(16:5)とある通りである。
この世界で神こそがすべてだからだ。

 放蕩息子は父のもとに帰るまで、心の安らぐことはなかった。食物が無くて生きられないという実情は
あったが、その彼が先ずしたこと、それは罪の解決だった。

「父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪をおかしました」(ルカ15:18)と叫んでいる。
神とのしっくりしない関係が彼を苦しめていたからだが、そのように罪の告白をした時に、本来あるべき
正しい関係に戻ることが出来たのだった。無くてならぬもの、それは神との正しい関係である。

そこからすべてが始まる。