石叫■ 「原爆投下の謝罪」
先々週のラフ新報で、アメリカのカトリックの神父たち3人が日本へ原爆を投下したことに関して
謝罪のため日本を訪れるというニュースを知った。その後それがどのように実現したかは分からないが、
これまで個人的にクリスチャンの集会で原爆投下への謝罪をしたという話は聞いたことはある。
でも謝罪を目的として訪日するという話は聞いたことがなかっただけに、実に感無量である。
未だ70%近いアメリカ人が原爆投下は正当だと考えている中で、これは実に画期的なことである。
GHQによる東京裁判がその典型なのだが、日本の戦争責任を裁いておきながら、原爆投下について
は何の裁きもなされていない。大都市の無差別爆撃もしかりである。でも戦争こそしかけなかったが、
日本への攻撃態勢を中国本土で準備し、戦争するしかないまでに日本を追い込めたのは実にアメリカで
あり、その背後にソ連が暗躍していた。戦争には裁きも何もありゃしない。どちらにも非があるのだから!
これも八月十一日のラフ新報の記事からなのだが、「東京をはじめ各地の都市が空襲で焼かれている
のになぜ広島は、と気味悪がる市民はいました。一方、長崎投下は、その日の第一目標だった小倉が
雲煙で上空から見えなかったため、目標を変えた結果でした。戦後、アメリカの調査団が広島、長崎に
入り、破壊ぶりを観察して記録しました。建物を吹き飛ばす威力はわかっていたでしょう。しかし、熱戦で
焼かれた人たちの無残な姿、外見に傷はないのに突然衰弱する放射線障害、原爆症などはほとんど
未知なものでした。アメリカが設けた原爆調査委員会は被爆者の治療ではなく、症状進行などを観察・
研究する施設で、市民の間に不信と怒りを広げました。アメリカは戦争を終らせるために原爆を落とした
と主張しますが、どれだけの威力か実際の人間で確かめてみたいという思いも、原爆をあえて
市民生活の頭上に投じた人々の胸中にあったのではないかと。私はそう考えています」。
歴史は絶えず強いものが弱いものを虐げてきたという迫害の繰り返しである。でもその非を打ち破る
のが謝罪である。すべてがそこから始まる。心からの謝罪は頑なな心を溶かすからだ。
主イエスは十字架上で、神の前に裁かれねばならない人類のためにその一切の罪を背負いながら、
断末魔の苦しみの中で、「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と赦しの執り成しをしたではないか。
それが父なる神の心を解かし、私たち人類への救いの道を開いたのだった。今回の神父たちによる
謝罪旅行も、世界に何千という核爆弾が存在する限り、掛け声だけに終ってしまいそうである。
だが、確実に勇気のある平和への長い道のりの第一歩である。