石叫■             「おろおろ」

敬愛する小山晃佑先生が今年3月25日にマサチューセッツの地で召された。
小山師は馬場多津子姉の実兄であられ、日本より世界に名の知られた神学者である。
この度、記念出版された「神学と暴力」という書の感動を記そう。

「聖書は読む人によっていろいろと異なった解釈が出てきます。現実世界がいろいろな
神学思想によって理解されるのは、そのためです。
『人は神の像に似せて創られた』という優れて神学的な洞察は、この世界に非常に影響すると
思います。信仰者は天国に行き、不信仰者は地獄に堕ちるという神学は、それを信奉する人の
世界観、人生観に相当刺激を与えると思います。

今日のアメリカ50州のうち、死刑制度があるのは38州、残る12州はありません。
死刑の賛否の議論で、よく聖書の言葉が根拠として引用されます。

聖書の死刑賛成(出エジ20:13)と反対(同20:13)の両方の記述があると
いうことです。奴隷制、戦争や女性の社会的地位についても同じです。この対立関係を
そのまま受けいれたら、衝突はいつまでも続くでしょう。便宜的に両者を使い分けていたら、
尊い人命にかんする理解としては信用できなくなります。
聖書のこうした矛盾は、実は聖書自身が解決しうるのであります。
『聖書は聖書によって解釈せよ』と宗教改革者ルターは言っています。
『聖書は幼子イエスが寝ている飼葉桶である。飼葉桶より幼子イエスのほうが大切である』も
彼の言葉です。聖書が啓示する真の神は『殺してはならない』という神であって、『殺せ』と
言う神ではない、というのが聖書の神学の要であります。

聖書全体は正義と愛の神を私たちの心に深く印象づけるからであります。
すなわち聖書の神髄は『神は愛なり』なのです。聖書は組織神学のようにすべての要素が
きちんと整理されてはいません。『一人の人が苦しんでいるとき、イエス様はおろおろされて
います。そのイエス様を信じている私たちも、一人の魂の苦しみを前にしておろおろする者で
ありたいと思うものです』…このおろおろこそ神学の本質です。
おろおろって何ですか? と問われたら、子どもが急にけがをした時の母親の困惑にも似た
ものです、と答えましょう。これが愛ではないでしょうか」。(抜粋)

御座で泰然としている神は何となく近づき難いが、放蕩息子の父のように、絶えず窓の外を
見ながら、いつ帰るだろうか、今どこに居るだろうかと、“おろおろ”しながら見守るお方で
あるならば、誰でもいつでもすぐにでも飛び込んで行けるではないか。

そのような神こそ、私たちの命を託すお方に相応しい。