石叫■            「神の慈愛と憐れみ」

主イエス・キリストというお方は十字架につけられてから四十日ほど、ご自分が死から
復活されたことを多くの人々に証明され、やがて主は雲に乗って天にお返りになった。
その同じ主が再び来られるというのが、再臨という聖書の重要教理である。
これは私たちの理性ではとても考えられないことなのだが、これほど言葉を尽くして
聖書全体で1600回も語られる教えは他にはない。

ヤコブ書五章には、「耐え忍べ」という言葉が繰り返し出てくる。
それは主の再臨が近いからというのがその理由である。
ちょうど前の雨(秋の雨)によって撒いた種が発芽し、後の雨(春の雨)によって穂が
成長するように、時が来れば必ずや豊かな収穫の時がやって来ると期待して、農夫たちは
耐え忍んで一生懸命に仕事に励むではないか。
そのように私たちも主の再臨を待ち望めというのである。
それは豊かな収穫の時だからである。

「主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたである」(5章11節)とあるように、
再臨の時には神の慈愛と憐れみの深さは計り知れないものがあるからだ。
再臨は希望の時だからである。

とかく私たちは、主が再び来られる時には、信じる者たちがまず天に挙げられて
主イエスのふところに抱かれ、主を信じない者たちが地上に残されて裁かれるのだと教え
られてきたのではなかったか。でもこのヤコブ書を読む限り、それは豊かな収穫の時だと
神は言われるのである。私たちには未信者の言動を裁く権利を持ち合わせてはいないし、
ましてや裁いてはいけない。それを云々する前に、まず信じる私たち自身がしなければ
ならない事がある。それが種を撒くことである。
むしろ、それをしないことへの裁きこそが怖いではないか。  

ああ、だが、この種を撒くというのは何と大変なことか。たとえ一枚の教会集会案内を
手渡すにしても、スーパーマーケットで日本人とおぼしき人に語りかける一言にしても、
何と勇気の要ることであろうか。
でも種を撒くことなくして、一体誰が豊かな実りを期待できよう。
希望ある主の再臨のためには種を撒くということが前提条件なのである。

だが友よ! 私たちの前にすでにトラクトを配り、声を限りに主の愛を叫ぶお方が
おられるのである。それが主イエスである。伝道は神のみ業だからである。
このお方に付き従ってゆくのが私たちの仕事である。主は私たちにその慈愛と憐れみの
素晴らしさとをご自身と共に体験して欲しいからである。
その素晴らしさをあなたにも味わって欲しいと願うのはいつも変わらぬ主の叫びであり、
それが主の慈愛であり憐れみである。