石叫■ 「クラーク博士」
北海道の札幌農学校に招聘され、内村鑑三や新渡戸稲造等を信仰に導いたウイリアム・クラーク
博士の消息をつづった書を手にした(「北海道を開拓したアメリカ人」新潮選書・藤田文子著)。
今日もなおクラーク博士の感化を受けた人々の多い(首相にもなった石橋湛山や社会党総裁の
河上丈太郎)中で、八ヶ月しか日本に滞在しなかった博士は一体どのような人物だったのであろうか。
クラーク博士は1826年にマサチューセッツに生まれた。後に内村鑑三が行くことになるアマースト大学で
回心体験をする。ドイツに留学し、隕石の化学構造で博士号を取得し、母校に迎えられる。
その後、開校したマサチューセッツの農科大学の学長になった頃に、札幌での要請を受けたのであった。
1876年8月に札幌に到着した時にクラークはちょうど五〇歳になっていた。
彼は英語と植物学の授業を担当した。
もちろん授業は英語であった。マサチューセッツ農科大学の平均的な入学者よりも、英語の読み書きが
出来ると思わせたほどに農学校の学生たちは優秀であった。 農科大学としては日本最初の官立学校だった
こともあり逸材が集まった。
博士は学生の道徳教育を聖書でした。 毎日授業の前に聖書の一節について語り、学生に聖書や賛美歌を
暗唱させ、そして祈った。
やがて学生たちとアメリカ人教師との間に禁酒・禁煙の誓約書が交わされる。学生たちがキリスト教徒に
なったのは、なによりもクラークと学生たちを結ぶ強いきずなのためだった。
北海道の長く厳しい冬の間、学生たちの楽しみは毎晩のようにクラークの宿舎を訪れ、彼の豊富な体験談に
耳を傾けたのだが、親元を離れて勉学に励む学生たちは彼に絶大な尊敬と信頼をよせた。
それによって学生たち自身が変えられたのであった。彼らは博士の教えを吸い取るように受け入れていった。
翌年三月「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、キリストの忠実な弟子となることを誓ったのであった。
彼らはキリスト教を博士と結びつけて考えた。彼のいう宗教であれば正しいと思い、素直に彼に従った。
その四月の別れ際に「Boys, be ambitious!」とクラークは叫んだ。
信仰によって結ばれた師弟関係を土台にして、あたかも寝起きを共にする徒弟のような親しい交わりが、
お互いを通常では得られないほどに強く結びつけたのである。
パウロも「信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい」(Tコリント16:13)と叫ぶ。
主イエスとの親しい命の交わりが私たちを強くする。
「大志を抱け」とは、強い愛の信仰を持つ者にして言えた励ましであった。