石叫■            「祈りから賛美へ」

詩篇73篇には信仰の原点とも言うべき光輝く一節がある。それは「わたしが神の聖所に行って」という
箇所である。神を信じる者は、その信仰の故に嘲られることが多い。「神がいるのだったら、見せてみろよ」などと言われたりする。でも、そのような人々の無理解の中で、この記者が聖所に来た時に、それらの恐れや不安が一瞬にして一掃されたのを見たのだった。この神の聖所で神ご自身の勝利を見たからである。現実は
どうあれ、信仰の眼でこの世界を見る時に、すでにその解決がなされていたのである。それからは神への
賛美が続く。

パウロはエペソ書で、「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」(2:6)と記す。そこには現在完了形が使われている。これはパウロが獄中で書いたもので
あって、まだ彼は死んでいないし、天国へも行ってはいない。でも信仰の世界で現実を見た時に、すでに
復活し、天の座に着くことが出来たのである。これが信仰者の生き方である。

歴代下に、近隣のアンモンの大軍が攻めて来るという記事がある。そこでユダの王ヨシャパテは神の前に
出る。「『つるぎ、審判、疫病、ききんなどの災がわれわれに臨む時、われわれはこの宮の前に立って、
あなたの前におり、その悩みの中であなたに呼ばわります。すると、あなたは聞いて助けられます。
あなたの名はこの宮にあるからです』と……われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、また
いかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」(20:10)と言って一族郎党神の
前に出る。幼子さえもでた。

そのように神の前に謙虚に心を注ぎだした時に、神が助けて下さると確信したのである。それから彼が
したことは、聖なる飾りを着けた人々を軍隊の先に進ませて神を賛美させたのだった。敵と戦う前に王は、
神の勝利を信じて賛美をささげたのである。これが祈りである。私たちは祈りはするが、願いばかりで
終ってしまい、肝心な神への賛美を忘れてしまうことが多いのではなかろうか。神に祈るのだったら、
そう信じて神を讃えることが更に大切なのである。

 「神は聞いて助けられる」お方である。だから、すでに迫害する者を打ち負かして下さっている主をこの詩篇の記者は見たのだった。現実はどうあれ、すでに神の世界ではみ業がなされている。それを信仰の眼で
見させていただこうではないか。そして祈ったことはすでにそうなったと信じて、
神を讃えてゆこうではないか。讃えることこそが私たち信じる者の聖なる務めなのだから。