石叫■             「おくりびと」

先週、今年のアカデミー賞受賞作品「おくりびと」を見た。
哀しくも心温まるユニークなストーリーに、涙なしには見られない大きな感動がそこにあった。

東京でチェロ奏者であった大悟は、突如その職を失い田舎に帰る。
そこで正社員の仕事を見つけるが、それは納棺師であった。でも妻にはどうしてもそれが言えない。
ある日、妻にそれがばれてしまい「辞めて」と懇願される。だが妻の要望が聞き入れられず、彼女は
実家に帰ってしまう。彼の友人たちからもうさん臭くみられ、彼自身も葛藤する。しばらくしてふと
帰ってきた妻の居る所に、彼のお父さんが召されたという電報が舞い込んできた。30年も前に愛人と出て行った父が何を今さら! とは思ってはみたが、妻が「ぜひ行ってあげて!」と懇願する。
妻と出かけた父の遺体安置所に地元の葬儀屋が来て遺体を無造作に棺桶に入れようとした時だった。
大悟は彼らを押しのける。妻は言った、「夫は納棺師です」と。彼女はその直前に列席した葬儀で
初めて夫の納棺する場に立ち会うが、そこで彼の仕事に誇りを感じ始めたようであった。大悟は父の
遺体に向かう。硬くなった合掌の手はそう簡単にはほぐれない。でも指一本一本ほぐしている間に、
そこから「ポトッ」と落ちたものがあった。小さく滑らかな小石であった。それは大悟が幼い時に父と「石文」(いしぶみ)で交換したものだった。石文はそれによって自分の意思を相手に表す。丸ければ心の温かさを表し、ごつごつしたものは心の動揺を表すというように。実は大悟自身も幼い頃に使っていたチェロのケースに父からの「石文」を大事にしまっておいたのだった。父も大悟からもらった
小石を30年あまりも肌身離さずに持っていた。それが大悟には、父の“許してくれ”との叫びに
聞こえたのであろう。彼の心に父を憎む心が次第に解けて行き、本当はずっと愛されていたという
実感が彼の心を照らしたのだった。それからの彼は狂ったようにチェロを弾き続ける。父の愛を心に
深く思いとどめ、それを実感するためであった。

万葉集に「信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みては珠とひろはむ」という一首がある。愛する者との思い出の石であるならば、たとい流れの中に沈むあまたあるさざれ石の一つではあっても、それはどんな高価な宝石よりも尊い珠のようなものなのだ。同様に救い主にとって、さざれ石のような私たちでも、「彼らを最後まで愛し通された」(ヨハネ13:1)というキリストの愛に心を開く時、その主に心からの賛美を、お捧げすることが出来るというものである。