石叫■           「わたしの兄弟たち」

 主イエスが十字架について死んで三日目の週の初めの日に、マグダラのマリヤは主の葬られた
墓にゆく。ところがその墓を封じていた石が取り除けられ、主はそこに居なかった。
実はそこで彼女は復活の主にお会いする。その時、主は、「わたしの兄弟たちの所に行って、
『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」(ヨハネ20:17)と言われている。
この書で主は初めてこの「兄弟」という言葉を使っている。それまで弟子たちに対しては「友」で
あった。主はご自身を裏切ったユダにもこれを用いている。実はこの「兄弟」という言葉こそ、伝家の宝刀とも言うべき天来の祝福であった。

 さて、マグダラのマリヤは七つの悪霊に取りつかれていた人物であった。七つの悪霊に取りつかれるとはどのような状態かは知る由もないが、彼女の日々の生活は、四六時中悪霊にさいなまれ、そのために誰も近づけず、ケアーも出来ず、友人も居ず、親からも見離され、祈祷師、占い師にもどうにもならないという天涯孤独で、絶望視されていた人物であったといえよう。その意味で、当時の彼女ほど希望がなく、みじめな人物は居なかったのではあるまいか。でも、そのような彼女に主イエスが近づき、完全に悪霊を追い払ったのだった。その愛の行為に対して彼女は自分のすべてをもって報いている。
実際、聖書を見る限り、彼女ほど主イエスを愛した人物は他にいない! そのような人物なればこそ、主はこの「わたしの兄弟たち」という祝福の言葉を託したのだった。

主は「天にいますわたしの父のみこころを行うものはだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マタイ12:・50)と言われているように、たとえ肉親でも、主を信じていなければ、それは真の家族とは言えないというのだ。

一方、パウロは、「神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った」(ピリピ2:9)と宣言する。主が十字架の死から復活して初めて神としての権威の座に就かれたというのだ。つまりこの時から、主と弟子という限られた地上での一時的な関係ではなく、神と信仰者という、「永遠に生きる命の関係に入った」という意味なのだ。
私たちも信仰によって、この永遠の命の関係に入れられている。これを彼らに知って欲しくて、
復活直後この言葉を、献身的に愛し慕ってくれるマリヤに託したのだった。

これこそいにしえからの福音であり、主の最も伝えたかった祝福のメッセージの一つだったからだ。