石叫             「見ずに信じるために」

二千年前の受難週に主イエスが十字架につけられて殺されるという痛ましい出来事があった。主の弟子たちは、主が捕らえられる直前まで異口同音に、「たとえあなたと一緒に死なねばならなくっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マルコ14・31)と豪語していたのだった。それから三日後、彼らがいつ捕えられるか分からないという恐ろしさの中で戸を閉じて鍵をかけた部屋で、主を裏切った情けなさ、不甲斐なさに打ちひしがれていた時に、主はご自身を表して下さった。主は十字架に死んでも復活の力によって生きている事実を彼らに表したかったのだ。

 だがそこにもう一人の弟子であるトマスは居なかった。弟子たちが彼に「わたしたちは主にお目にかかった」(ヨハネ20・25)と言うと、彼はその手に釘あとを見、この指をその釘あとにさし入れ、そのわきにさし入れてみなければ、決して信じないと豪語する。だが八日後に主イエスご自身が現れて、彼に「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われた時に、「わが主よ、わが神よ」と応えたのだった。そこで主は「見ないで信ずる者は、さいわいである」と言われている。トマスは見て信じたのだが、私たちはそんなトマスを決して笑うことは出来ない。私たちも例外なく見ないと信じられないからだ。

 たとえばあなたが死んだ人間が蘇った場面を実際に自分の目で見たとしよう。それをどのように他人に伝えることが出来るであろうか? その人もきっと自分で見ないと信じないと言うであろう。そうなると信じる者が起こされるためには主イエスはいつも死んで蘇らないといけないことになる。では一体どうしたら見ずに信じることが出来るのであろうか?

 でも、この復活の場面で、「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ20・23)と言って弟子たちを遣わした主の言葉のように、罪の赦しという神にしかできない事が、自分と直接関わっていると信じ、そのように神に心を開き、受け入れる時に、神が死人から蘇ろうと、海を歩いて渡ろうと、見ずに信じられるようになるから不思議である。罪の赦しを受ける時に、人は見なくても信じられるのだ。実に見ずに信じるは幸いである。