石叫■ 「魂の休み」
マタイ福音書11章28節に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしの下に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で謙った者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」という人々に良く知られたみ言葉がある。クリスチャンにはこのみ言葉で信仰に入った人々が多いのだが、これをよ〜く読むと、どうも理解に苦しみことがある。それは重荷で苦しんでいるのに、どうして更に主イエスのくびきを負わねばならないのか、という素朴な疑問である。
実はそれは、このように理解できよう。くびきとは二頭の家畜で畑を耕すための農耕器である。その二頭のうちの一頭があなたなのであり、もう一頭が実は、詩篇68篇19節に「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな」とあるように、ナント、主イエス様ご自身なのである。そのお方が力強くくびきを引いて下さり、導いて下さるというのだ。そして私たちはその主の進まれる方向に身を任せ、付いてゆくのである。そのようにくびきを共にすることによって主のなさるみ業を見てそれにならい、そして主を賛美するのである。
さて、ここで「魂に休みが与えられる」というみ言葉がある。休みは肉体の疲れではなく、魂のことに言及している。前者は休めば癒されるが、後者はそうはいかない。それこそ休みが必要なのである。魂とは神と直結する世界である。その神と共に歩むことが大切なのであり、それが本当の憩いなのだと聖書は言いたいのだ。主と共に歩むことが魂の休みであるからだ。
さて主イエスは主を信じる者に、「日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9・23)と命じておられる。私たちには毎日背負う十字架という重荷があるというのだ。ちょうど罪人が自分のつけられる十字架を背負って刑場に進みゆくように、私たちも自覚しようがすまいが、日々に犯す罪がある。だから、それらを十字架につけ、赦していただいて魂の休みを得るために、日々にそれを負うのである。そういえばヨハネは十字架につけられた主イエスが「すべてが終った」(19・30)と言って「首を垂れた」と記しているが、これは「枕する」という意味である。多忙を極めた主イエスにとって十字架で初めて憩うことが出来たというのだ。そのように主を信じる私たちもその十字架に荷を下ろして休むのである。それが魂の休みであり、真の憩いである。