石叫■           「移民の指導者」

日系人社会の草分けとしてジャーナリスト、農業経営者、人材管理者、財政スペシャリストとして多才な働きをした人物に安孫子(あびこ)久太郎がいる。

 安孫子は1865年に新潟県に生まれる。17歳で横浜に上り、翌年に魚町キリスト教会で洗礼を受ける。20歳の時にサンフランシスコに渡り、「福音会」に所属する。これは日系人社会で最初の組織団体となったものであり、その会長でもあった。これは1877年に中国人伝道館の一室を借りて35名からなる集会を始めるに至ったのものであり、日本人教会のさきがけとなった。

安孫子は友人と共に小さな新聞社を購入し、やがて「日米新聞」を創設したが、やがてそれはアメリカで最も購読者が多く2万5千部にもなった。その紙上で彼はアメリカには出稼ぎではなく、永住するように訴え、一世達の無知から来る様々な問題のために、教育の大切さを訴え、意識改革の必要を説き、日本人はアメリカに貢献しているのだということを訴え続けたのだった。

1924年に日本人排斥法が成立することによって、日本本国にはその弱を非難し、当地では排日の急先鋒であるカリフォルニア州連合移民委員会の書記長をしていたV・S・マクラッチャーと会談を重ねている。その彼は「あなたが、カリフォルニア州における日本人の思想上の指導者の位置にあることを了解するがゆえに」と断っているが、安孫子は一歩も引かずに応じている。そのようにして反軍国主義者として新聞を通して論戦を張った。彼はさらに日系人農業のひな型ともいうべき社会を実践するために、自らフレスノ北部に位置するリビングストンで「ヤマト・コロニー」を設立し、2500エーカーにも及ぶ土地を購入する。それは今でも近郊の社会に貢献している。彼は1936年に没しているが、その広範囲の貢献のゆえに“移民の指導者”と言われている。

ヘブル書に、「神の言葉をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい」(13・7)とある。安孫子は直接、福音を語るということではなかったが、日系人がアメリカに受け入れられるためにはどうしたらよいかを腐心し、その間の軋轢を無くするために労し続けてきたのだった。それは日本人女性としてはじめてアメリカに留学し、津田塾大学を創設した津田梅子を姉にもつ妻・余奈子に負うところが大きかったようだ。当時と同じように、今も文化の違うお互いの間に平和が求められている。彼の働きを思い起しながら、お互いの置かれたその家庭で、友人関係の中で、平和をもたらす者でありたい。