石叫■            「そんなことはない」

 これはラフ新報二月十日付の『くらしナビ』というコラムにあった絵本・童話作家きむらゆういちさんの「親は少々だめがいい」からの引用である。

 夜の打ち合わせや飲み会にはしばらくの間行きませんでした。行けないことよりも、子どもが家で待っていると思うことのほうがストレスですね。たまに遅くなったりすると、「お父さんに大事な話があるんだけど…」なんて、息子が電話してきたりするんです。そんなときは、ああ、早く帰らなくちゃと思います。子育てしているから仕事に遅れが出るとは、考えたことがありません。「自分が抜けたら、仕事に大きな穴が開く」と思ってみんな必死に働いていますが、そんなことはない。よく言いますね。「仕事に代わりはあるけれど、子育てに代わりはない」。本当ですね。

 私自身?歳で父親を亡くしているので、中学生の息子にとっての父親像がどんなものか知りません。モデルがない分、自由に父親像が作れると思っています。細々と身の回りの世話が必要な小学生と、自立しつつある中高生では接し方も違う。親が変わるというより、子どもの方から変わっていきますね。
 
 親は少々だめなくらいな方がいい。親にお金がなければ、子どもは頼ったりせず何とか自立しようとする。立派すぎる親だと、人生の基準になってしまって子どもはつらいんじゃないかな。

 この記事を読んで、恐らく企業戦士と言われた、あるいは今もそう言われる御仁には、少々カチンと来られた方々も少なくないのではと思われる。特に「『自分が抜けたら、仕事に大きな穴が開く』と思ってみんな必死に働いていますが、そんなことはない」というくだりである。「自分が」という意気込みが企業を支える土台となっていたのだと自負もし、お互い、そう言われてきたのではあるまいか。でも、きむらさんは敢えて、「そんなことはない」と言われるのである。

マルタとマリヤの二人の姉妹がいた。働き者の姉のマルタが人の世話で心を乱している時に、マリヤは何もせず、ただ一心不乱に主の言葉に聞き入っていた。そこで姉が妹ではなく、主イエスに文句を言った時に、主は「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ十・四一)と言われたのである。確かにお客の世話はその家人であるマルタかマリヤがすべきであろう。でも、今はその時ではない。それよりもっと大切なことがあると言われたのだ。

「自分がしなければ」と言い張る時に、その前にしなければならないことがある。それが愛すべき者への愛の配慮であり、それこそが神第一の信仰なのだと。