石叫■           「忘れることが大変だ」

ラフ新報に「女の気持ち」というコーナーがある。その一月三十日付けはピカッと光る記事であり、実に人情味あふれる内容であった。

0点だ、0点。理屈を言うと、0点は100点をとるより難しい。中学の数学。次の中から正しい答えを選べときたら、どれが不正解か分かっていなくてはまぐれで正解してしまう。それなのに私は0点。当然、居残り授業が待っていた。各クラス代表のさえない者たちが集い、「32点」「負けた」。「おれ28点」と出来の悪さを誇っていた。中でも私が一番の勇者らしかった。先生は長い数学の公式をいくつも黒板に書くと、「明日、再試験をするから、今日中に覚えておくように」。みんながため息をつきながらノートを写すが、私はぼんやりと、ただ黒板を見つめていた。「どうした」。先生が声をかけてきた。わたしはキッと先生をにらみ、「こんなに覚えられません」と言った。「いやっ、できる」。先生はきっぱり言った。「覚えられない。再試験なんて受けたくない」。私はごねた。すると先生は言った。「取引しようじゃないか。人間は覚えるより忘れることの方が大変なんだ。明日までに君が自分の名前を忘れてこられたら公式を覚えなくていいし、再試験も受けなくていい」。返す言葉が見つからなかった。その後の人生で失恋や失敗、友人とのトラブルなど嫌で早く忘れたいことを体験する度に、あの西日の差し込む居残り学級で、先生の言った一言「人間は覚えるより忘れる方が大変だ」をしみじみ思い出す。

この数学の先生は過去の自分の歩んできた様々な思い出の辛さ、甘さを痛いほど知らされてきた人間だったのであろう。あの事この事と、何としてでも忘れたいことが人生には必ず幾つかあるものだ。でも、それが出来ないところに人間の哀しさがある。そしてそれがまた人間を成熟させてゆくよすがともなっている。実に人の歩みというのは奇にして、妙なるものがある。

パウロはピリピ書で、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」(三・一三&一四)と記す。私たちは過去の傷や栄光に捕らわれやすい。それが忘れられないのだ。でも、それを乗り越えさせるのは、人生のゴールである主イエスを見上げ続けることにあるとパウロは言う。その世界があまりにも素晴らしいから、主から目をそらすことが出来ないのだ。過去に捕らわれない生き方がそこにある。主にこそある。