石叫■        「ラハブの信仰」

ヤコブ書二章には、行いに伴う信仰の代表人物としてアブラハムと遊女ラハブが上げられている。あまたある歴代の信仰者たちの中でヤコブはその二人だけしか列挙していない。彼女の一体何が優れていたのかを模索してみたい。

紀元前一四〇〇年頃のことだ。ヨルダン川の西岸エリコという町の住民ラハブは見知らぬ二人のイスラエルのスパイを迎えた。彼女はその時、開口一番「主がこの地をあなたがたに賜った」と宣言している。というのはイスラエルの神が、何百万というイスラエルの民を率いてエジプトを出る際に、目の前の紅海を真っ二つに裂いて対岸のシナイに渡らせたことを聞いていたからだった。それはラハブにとって彼らの神こそが信じるに足る神であることを納得させるに十分な事実であって、彼らがいつこのエリコに攻めて来るようなことがあっても、彼らを受け入れ、彼らと共に生きる心の備えが既に出来ていたのだった。

先日、同郷のある人と信仰の話しになった。彼は東北地方に拡がる「おしら様」を信じているという。そこで僕は言った。それは東北地方では通じるかも知れない。でも、自分が心から信じている神ならば、国境、文化を越えて誰にでも信じて欲しいと思うだろうし、その神たるを証明したいと思うではないか。というのも神は国境、文化、時空を越えるべき存在だからだ。ある特定の地域だけ信奉される神であったならば、それはやはり地方の神々の一つに過ぎないからだ。つまり神を信奉し、その神を誇るというのなら、歴史的に証明されるお方でなくてはならない。それは神を信仰する者の必要条件である。

そこでラハブは「しるし」を求めたのだった。敵のスパイをかくまった見返りに、今度は彼らが攻めてきた時に、自分を助けてくれる具体的な証拠をである。そして後日そのしるしである赤い糸を窓に結び付けたので、彼女は助かったのだった。それはちょうど出エジプトの際、子羊の血を鴨居と門に塗ることによって裁きの天使がそこを過ぎ越し、その家の中に居た人が助かったように、血が人の罪を赦すというしるしだからだ。それはまた十字架のキリストの血がすべての罪を赦すというしるしでもある。そして今の私たちには、「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われる」(ローマ十・十)とあるように、聖書が救いの確信であり、しるしである。この聖書の言葉を生きることが私たちの信仰だからだ。ラハブを偉大な信仰者にしたのは、赤いひもという救いのしるしが、来るべき主イエスの十字架の血を指し示していたからに他ならない。