石叫■ 「命とは」
昨年の文芸春秋11月号に、日野原重明という聖路加国際病院理事長の「誰でも百歳まで生きられる」という手記が載った。以下、とくとご紹介しよう。
私は三年前から、各地の小学校へ出かけて「いのち」について教えています。『十歳のきみへー95歳のわたしから』という本を出版したところ、子どもから「日野原先生に来てほしい」という手紙が来るので、できるだけやり繰りして駆けつけています。校長先生からは、「私語をしたり、落ち着かない子もいますが、どうぞ我慢してください」といわれます。こちらからは「私が97歳だとか先に紹介しないで、まずみんなで校歌を歌ってください」とお願いする。校歌の前奏が始まったらすぐ会場にはいって、子供たちの中を歩きながら、大きく手を振って指揮をするんです。すると「誰だろう、このおじいさんは? ぼくたちの校歌を一緒に指揮してくれてるぞ」と思って、そのあとも集中して聞いています。「命はどこにあると思いますか」と聞くと、みんな胸のあたり、心臓に手をあてる。私のお話の中で、聴診器を貸して二人一組になって友達の心音を聴くと、たしかにドクドク動いています。でも心臓は血を送りだすポンプであって、大事だけど、命ではない。血液を容れるポンプです。「命とは、生きていられる時間のこと。君たちが自分でつかえる時間のことだね」とも教えるんです。じゃあ、君たちは今日、自分の時間、自分の命を何につかったかな? 朝起きて、朝ごはんを食べて、学校で授業を受けて給食をたべて、友達と遊んだ。それはみな、自分のためにしたことだ。反対に、ご飯をつくってくれるお母さんや、授業をしてくれる先生は、君たちのために、自分の命をつかっている。「君たちは自分だけのために命を使っている。今はそれでいいけれど、大きくなったとき、誰のために君たちの時間を使うか。それを考えておくのが宿題だよ」というと、10歳の子どもたちは、非常に素直に理解してくれます。
さて、この質問をあなたにしたら何と答えるであろうか? 換言すると、あなたは自分の時間を、イエス様のために使っているかどうかということなのだ。今年の年間聖句である「キリストの心を心とせよ」(ピリピ2・5)というのは、そういう意味である。自分の時間を自分のことだけに使うというのは小学生レベルである。でも一歩進んで、神が私たちの回りに置いて下さった人々のために祈り、励まし、訪問し、電話をし、聴き、共に泣く時、それこそが自分の命を使うということになり、キリストの心を心とすることなのではなかろうか?