石叫■            「この年の望み」            

新年にあたり、この100年に一度という不景気をどう乗り越えたらよいか、多くの関係者が頭を悩ませておられるのではないだろうか。歴史的には、いつも人々を動揺させるような危機があったが、そのような中にも神は絶えず光を射し込ませている。その一つが戦時中の日系人強制収容の最中でのことである。

 数年前、ロサンゼルス全米日系人博物館で戦時中のある資料を探していた時に、幾つかの貴重なものを目の当たりにすることができた。それは日米戦争の始まった翌年、強制収容所に入れられる直前のイースターに語られた牧師達の説教集であった。その中でも特に、「西海岸に住む十二万人近い一世、二世が強制収容所に入れられるのは、ちょうどあのモーセによってなされた出エジプトのように、新しい約束の地に向って前進する祝福への門出なのだ。だからたとえ二世達がアメリカの市民権を剥奪され、強制収容所に入らねばならない時にも、それはさらに良い祝福への道だと信じて前進しようではないか」と言って一世や二世を励ました聖公会聖職者、山崎ジョン師のものが心に響いてきた。

この出エジプトとは紀元前1400年頃、エジプトの地で400年以上にもわたって奴隷になっていた200万、300百万とも言われるユダヤ人が、モーセによって解放され、故郷のカナン(後のイスラエル)に帰還した出来事を指す。

さて旧約聖書の出来事はすべて、主イエスのみ業と照らし合わせて考えねばならないという原則がある。ルカ福音書には、「栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」(9:32)とあるが、この「最後」とは原語で「出エジプト」という言葉がある。

つまりモーセが当時の大帝国エジプトで奴隷になっていたユダヤ人を解放したように、主は罪の奴隷になっている全ての人々を、ご自分の十字架上での死によって解放するというのである。つまりはモーセではなしえなかった罪からの解放という真の「出エジプト」を十字架で完成するというのである。その主に従ってゆく時に、今度は現代の私たちもそのような奴隷状態から出エジプトし、約束の地である天のカナンに帰ることができるというものである。

未曾有の困難のただ中にあっても、それを祝福への出エジプトとして雄々しく乗り越えてゆくことが出来るのは、救い主なるお方への信頼である。その困難こそが祝福への門出であると山崎牧師は語りたかったのだった。その祝福にあなたもあずかっていただきたいものである。この年の望み主にあるからだ。