石叫■ 「使い勝手の良さ」
これはラフ新報十一月六日付けの「磁針」からの引用である。とっても気さくな言い回しで、しかも心にジーンと訴える文面である。ご紹介しよう。
今年の六月にホンダの二輪車「スーパーカブ」は発売後五十年を迎えた。この間の生産台数は累計六千万台。初代からの設計をほとんど変えず、半世紀でここまできた。技術的に日進月歩の機械モノにとって、基本的に同じ商品をこれだけの長い間生産・販売するということは、いかにその製品が優れているかの証明そのものである。当地アメリカでも「アコード」「シビック」などを抱えるホンダは四輪車メーカーとして認識されがちであるが、もともと同社は二輪車メーカーから出発した。創業者の本田宗一郎は、スーパーカブの設計・開発に当って「蕎麦屋の出前持ちが片手で運転できる」バイクを目指したという。その「使い勝手の良さ」がスーパーカブを半世紀以上にわたって息長く世界中で愛される商品に仕上げた原動力であった。商品は「良い」「安い」だけでは消費者に飽きられる。その後半世紀経って、世界中にまだスーパーカブを越えるバイクが出現していないことを見ても、そのことが実感される。
スーパーカブに比べれば、その後大衆の生活になくてはならないものとして登場したパソコンなどは、使い勝手の悪さが際立つ。機構・操作は複雑だわ、寿命は短いわ、故障はするわ、簡単に修理ができないわ、と素人には問題だらけである。今どき還暦すぎの私でも使わざるを得ない状況である。それにしては、ハード・ソフトの両面からみて、この「使い勝手」というものは全然改善されていない。毎週のように新型が発売されて新しい機能が満載されて出てくる割には「使い勝手のいいパソコン」はまだ市場に姿を見せていない……だれかホンダを見習って、パソコンのスーパーカブを早く市場に送ってくれないか。
聖書は「使い勝手」の良し悪しは、その人次第だとパウロは説く。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」(Tコリント一・一八)とあるように、信じる者にはそれ無しには生きられない程の存在であるし、そうでない者にとっては、あってもなくてもいいモノだからである。信仰者にとって聖書は毎日接するものであり、自分の命よりも大切なものなので、手垢で真っ黒くなるほどに使い勝手良くしてしまうスーパーカブなのである。そうなるまではパソコンのように取っ付きにくいものではあろうが、あなたの主へのパッションが、使い勝手の良し悪しを決める。