石叫■            「幸せ感」

クリスチャン新聞「福音版」の9月号にパーフォーマンス心理学者の佐藤綾子氏の「人とつきあう聖書の知恵」という一覧の、ある言葉が目に留まった

「人に会えば、『何もありません』、『何もできません』とマイナス宣伝をする人がいます。これは聞いた人も不愉快ですが、自分も損をするだけでロクなことがありません。そこでとっておきの才能探しのポイントをお知らせしましょう。

@     人と比べないこと。

A     自分の顔が輝いている時の動作をよく覚えておくこと。

B     時間が短く感じられる仕事や遊びが何なのかをよく記憶しておくこと。

私たち日本人は小学生の時から相対評価の中で育ちました。誰かが五を取れば、自分は三か四しかもらえないというのが、通知表の相対評価です。こうなるとつい人と比べ、自己評価を決めます。『あちらは美人、こちらは美人ではない』、『向こうのご主人は収入が高い、こちらは貧乏だ』という具合に。これでは幸せの感覚が全部人まかせで自主性がありません。私たちの価値は一人ひとり絶対評価ではかられるべきものです。なぜならば神様が一人ひとりに異なった才能を与えているのですから」

この「幸せの感覚が全部人まかせで自主性がありません」という言葉が心にドーンときた。自分の幸せが他人に左右させられていたとは、つゆも気づかなかったからである。自分はマイペースで生きてきたと思っていたのだが、そうではなかったようだ。当然、自分の幸せが他人まかせで良いはずがないのだが、人間(じんかん)の中で生きた者にとって、この相対評価という「しがらみ」から抜け出すのは容易ではない。というのも、すべての感覚がその評価を基準にしているからである。才能しかり、能力しかり、道徳感覚しかり、人物の評価にしてしかりと。それを抜け出すには神の世界に身を乗り出す以外にはない。

「あなたを創造された主はこう言われる……わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ四三・一)とあるように、私たちは神との個人的な関わりの中にあるので、他人と比べる必要がないというのが聖書の世界である。だから他人まかせではなく、自分がいかに神に近づくかで、その度合いが決まる。換言すると、信仰によって人は幸せと感じもし、そうでない場合もある訳だ。要は神の懐に飛び込んでゆくことだ。幸せは他人任せではなく、自分でつかむべきだからだ。流行歌ではないが「幸せは歩いては来ない」からだ。