石叫■             「聖書の正典」

 「新約正典のプロセス」という蛭沼寿雄氏の本は、私の書庫に積読されていたものである。
今回必要があって開いたところ目の開かれる経験をさせられた。

それは聖書がどのようにして今日に至ったかという内容であるが、内村鑑三の愛弟子の一人、
塚本虎二によって書かれた「福音書」についての言及が心に留まった。
実はこの書は学生時代に一度読んだことがある。
まだクリスチャンでもなかった僕には初めての聖書だったので、何の疑問もなく読んだものである。
ところが、その本は私たちがお馴染みの「マタイ福音書」が最初に来ているのではなく、
「マルコ福音書」が最初だったとはつゆも気づかなかったのである。

現代の聖書学者は、マルコ福音書が他の三つの福音書に先駆けて書かれたという一致した見解があり、
四福音書はマルコを最初に置くというのが適当だと考えられているという。
というのも聖書は、そのセクション(新約は福音書、使徒行伝、パウロ書簡、公道書簡、黙示録の
五つの部分からなる)に関しては年代順に並べることが原則だからである。
私たちの多くは今まで、聖書の順番に疑問を持たずに読んで来たのではないかと思うのだが、
実際にあまたある写本の中で、現在の順序に並んでいるものは片手で数えるほどもない(全体の二%)。
多くはその順序が錯綜している。

そもそも新約聖書は初めから全部が一書としてあったのではなく、しだいに収集されたものである。
その間に順序の異動があるのはむしろ当然である。文書の順序と正典性とは本質的には何の関係もないのである。
順序という人為的なものに絶対性を持たせること自体が適切ではない。
ちょうど20年前に「新共同訳」聖書が出た。プロテスタントとカトリックが協同して造り上げたものである、
キリスト教の歴史の中でも、世界的に言っても、これほど画期的な事業はなかった。
でも、世界にはこの両者のクリスチャングループと共に、東方教会というものがある。
「正当派」(オーソドックス)と自称するロシアやギリシャ正教会等であるが、そのグループは
この新共同訳では満足していない。続編として外典なるものを添付しなくては受け入れないのである。
今なお聖書の内容に関して、世界は一致していない。

パウロは「聖書は、全て神の霊感を受けて書かれた」(第Uテモテ3:16)と言う。
時代が変遷し、教会によって聖書の内容が云々されることはあっても、その中心メッセージは神の霊によって
語る主イエスの十字架による救いのみ業である。この事実こそが正典であり、永遠に変らぬ神の愛の世界である。