石叫■          「松岡洋右とユダヤ人」

神戸を訪れた最初のユダヤ人は貿易商人たちであり、日本が世界に門戸を開いた1862年以降だと云われている。
19世紀末頃から神戸はユダヤ人の宗教的な拠りどころとして親しまれてきた。

第二次大戦前に神戸には二つの会堂があって、それぞれ「アシュケナズ」と云われたポーランドやロシアからのグループと、
「セファルディ」と云われたイランやイラク、南フランスやスペインからのグループが、それぞれ使用していた。
その神戸に一九四〇年と四一年に大挙してユダヤ人が訪れたことがあった。ナチのホロコーストを逃れてきた人々であった。
その頃の日本はドイツと同盟を結んではいたが、あえて彼らを日本の高官たちが助けることにしたのだった。
それは当時、満州を支配していた日本として、ユダヤ人らを助けることが世界に良い影響を及ぼすと考えたからであり、
それに彼らのもつ経済的影響力、特にドイツ在住のユダヤ人の持つ科学的知識が、日本の軍事力の助けにもなると考えたからに他ならない。

一方、松岡洋右外務大臣の許可を得て、ユダヤ人研究家だったコツジ・セツゾー博士らはユダヤ人が神戸に滞在できるように働きかけたのだった。
彼は神戸警察署に願い出て、ユダヤ人保護を取り付け、彼らの移住先が決まるまで滞在出来るように東奔西走したのだった。
リトアニアの杉原千畝領事によって六千人のユダヤ人が救われたが、シベリヤ経由で神戸に着いた彼らは、出国先が決まるまで神戸に滞在できたのだった。
もちろん、神戸のホーリネス教会も彼らを訪問し、彼らのために祈り支えたのだったが、中田重治日本ホーリネス教団監督はユダヤ人の救いのために
絶えず諸教会を励ましてきたのだった。杉原領事の件に関しては、アメリカ留学中にクリスチャンになった松岡が黙認していたのではないかと云われているが、
コツジ博士の場合もクリスチャンとしての立場からユダヤ人を助けたのではあるまいか。ユダヤ人を助けるといのは、本来ならばドイツからはもちろんのこと、
日本の在野からもわんさか言われる状況だが、松岡はそれを重々覚悟の上で許可を出してくれたに違いない。

 聖書に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12・15)と命じるが、松岡の心にユダヤ人を助けようとの思いがあったのは、
何よりも彼自身の中に主イエスとの生ける命の関係があったからではあるまいか。実に信仰を持つというのは幸いである。
サンフランシスコ在住のユダヤ人が、先年、神戸大地震の時に真っ先に義捐金を送られたというのも、むべなるかなである。