石叫■            「ライ病人」

マルコ福音書一章に一人のライ病人が主イエスのもとに来てひざまずき、自分の病気を治して欲しいと願い出ている。
その時に主は深くあわれんで、手を伸ばして彼にさわり、直ちに癒している。
ここに主イエスならではの、なみなみならぬ神の愛を見ることができる。それは主がライ病人に直接触れているからである。
それは前代未聞の出来事であったからだ。

ライ(今はハンセン氏病)は天刑病と言われた。文字通り神の刑罰だと言われたのである。
それは親しい友人はもちろんの事、家族からも断絶される事を意味している。
たとえ治っても、一旦ライの烙印を押された以上、再び社会に戻る事は本人にとって更に難しいであろう。

東京聖書学院修養生時代、近くの清瀬という街にある全生園というライ病人の施設をクリスマス・キャロリングのために何回か訪問したことがある。
世間から隔離され、愛する者からも見捨てられた彼らには、そこしか居場所がなかったのだ。
その彼らの痛みの深さたるや、私たちには到底計り知れないものがあった事だろう。

私が八戸市内の小学校にいた頃、下校時に交通事故で血だらけになった子を見たことがある。
校長先生は急を聞いて駆けつけ、トラックに轢かれたその血だらけの子をしっかりと抱いて、タクシーで近くの病院へ飛んでいった。
人は自分が返り血を浴びても、躊躇しないでその人物を助けるではないか。

だが、もし、自分の子がライ病になったら、果たしてどうするだろうか。
その子を抱くにしても、一瞬たじろぐ自分がそこにいる。自分が命を注いで育てた子ではあっても、ライという病が自分をそうさせるのである。

詩篇二七篇に「たとい父母がわたしを捨てても、主はわたしを迎えられるでしょう」とある。

僕はどんなことがあっても自分の子だけは捨てることは決してないと思っていた。
だからどうして詩篇の記者は、そのようなことを言うのだろうかと不思議でもあった。
でも、「一瞬たじろぐ自分」が、まさに子を捨てるという詩篇のみ言葉に重なって見えたのだった。

幸い、父母がたとえ自分の子を捨てても、主イエスは捨てることがないと宣言される。
このマルコ一章で、主がライ病人に手を差し伸べる姿に、主のライ病人を受け入れ、彼と痛みを共にする神ご自身の愛を見る。
一瞬もたじろぐことのないお方だからこそ神なのである。

改めて神の無限の愛を知らされると共に、自分の愛の足りなさと、その限界を知らされたのであった。